単色の言葉

テキトーに書いたら載せるだけの場所です。

目次

多分ここから飛んだ方が楽です。前の作品とかは特に。(PC等の場合)

 

創作物

虚像の国のアリス

殺人なんて、あるわけないじゃないですか。 前編   中編   後編

善かれと想って

月は綺麗ですか? 前編 後編

 

 これから色々増えるかも。雑記とかも。

 

 

そのうち二次創作の方と併合するかもしれない。どこかに投稿するときは名義をここに明記すると思います。

月は綺麗ですか? 後編

 

「――だけど、日本人は『I love you』をそんなストレートに直訳で言わないものだから」
「月が綺麗ですね……と」
「教え子にそう訳せと教えた、ってな風に知られてるわね。まあ、彼の人格を評する後世の創作だともされてて、都市伝説的なものの域を出ないんだけど」
「へえ……でも、ロマンチック? ではないですか」
「その話自体はね。でも、それがまともに通じるようなことになれば、それはそれで無粋じゃない?」

 

 わたしが、「月が綺麗ですね」という言葉にまつわる夏目漱石の逸話を知ったのは、つい最近のことです。

 数少ない友人との他愛ない話の中で、ふと出た話題がやけに心に引っかかって。それがまさか、かつて自分に向けられたものと同質ではないかと気付くまでに、時間は然程もかかりませんでした。

 しかし。今更掘り返して現在に期待を寄せるには、それはあまりにも頼りなく。
 当時にはそういう気持ちがあったとしても、今はそれと同じかその延長線上にあるとは限らないこと。そもそも、あなたがそういう意味を込めておらず、ただ月の美しさに言及しただけである可能性があること。
 願望よりは確信に近い希望はありましたが、怖くて、とてもとても。訊き出せたものではありませんでした。

 

 今日までは。

 

 階段を昇り終え、屋上へと続く扉を開けてもらいます。少々年季が入っているのでしょうか、金属が軋む音が低く響いた後、生暖かい空気が吹きこんできました。

「では、私はここで待ってますので」
「ありがとうございます」

 あなたは扉の鍵を開けてくれた傍らの看護師さんに感謝を告げ、わたしの手を引いて、前へと歩を進めて行きます。

 不安は、あります。ないわけがありません。

「ちょっと段差あるから、気を付けて」
「はい」

 緩い風の流れを肌に感じます。夏の夜にしては涼しいですが、寒くはなく、着のままで丁度良い気温。
 遠くの風の唸り声と、わたしとあなたの足音以外に、耳朶を打つものは何一つありません。この病院の屋上は、今は、今だけは、広大で清涼な夜の草原と化します。

 扉から十数歩のところで、あなたは立ち止まり、わたしの背後に回り込みます。

「じゃあ、外すね」
「お願いします」

 わたしは、自分でも驚くほどに落ち着いていました。身体に無駄な力が入ることも、心拍数が上昇することもありません。

 ぎこちない手つきで、あなたがわたしの頭部、目の部分を厚く覆っていた包帯をゆっくりと、一回りずつ丁寧に取り払ってゆきます。

「おかしなところはない? 痛みとか、違和感は」
「大丈夫です。問題ありません」

 決意をしてからも、恐怖に駆られることは一度や二度ではありませんでした。
 成功か、失敗か。成功したとしても、どのような回復を見せるのかはわかりません、望まない形での結実を受け入れられるかどうか。失敗に終わり、在るだけで支えとなっていた希望をも失ってしまうことになるかも知れない、そんな万一を覚悟できるかどうか。
 現代医学も万能ではありません。上手くいかないことも、残念ながら稀にあるのが現実です。医師の方の誠実なその言葉の前に竦んでしまい、しばらく声を発せなくなってしまったときもありました。
 どうしても震えが止まらず、眠れなくなる夜もありました。光の元に、あなたの側に歩み寄ろうとしているのに途中でつまずき、永遠に暗闇に取り残されてしまう悪夢にうなされることもありました。

「……はい。これで全部です」

 それでも、ここまで来ることができたのは。

「あなたの、おかげです」
「え?」

 光、という概念は既に知っています。網膜が完全に駄目になっているわけではありませんでしたので、陽の元に出たときに瞼越しに感じられる《《それ》》が光なのだと、理解はしていました。
 しかし。手術を経て、その加減が劇的に変化しています。
 言葉通り、目に見える違いを早くも目の当たりにし、涙が込み上げてきました。

「ありがとう、ございます」

 目を閉じたまま、わたしは振り返って。

「あなたが居てくれたから。あなたがずっと、側に、いてくれたから。わた、しは」
「……うん」

 上手く言葉を紡ぐことができないわたしに、あなたはどこまでも優しい声で返してくれます。

 もう、何もわたしを縛るものはありません。
 恐る恐る、瞼を開けようとして。

「――っ」

 いきなり飛び込んできた、あまりの刺激の強さに。また目を閉じ、俯いてしまいます。こんなにも、早くあなたを見たいのに。ままならないことに、焦燥が募ってゆく。

 わたしを気遣う温かい手が、わたしの肩を柔らかく包んで。その温度は、いつかの、河川敷を歩いた時の記憶を呼び起こしました。
 月についての、取り留めもない話。あなたが勇気を出して言ってくれたことは、今でも鮮明に思い出すことが出来る大切な記憶。それを想えば、何も怖いことは無い、はず。

 大丈夫。大丈夫。焦らなくても。と自分に言い聞かせ、もう一度、あなたに向かい合います。

「ゆっくり、ゆっくりでいいんだ」

 ものが見えるようになっても、厳しい現実は新しい壁をわたしに突き付けてくるでしょう。
 まだ一度も、眼を使ってものを見る、という経験をしたことがなく、眼の意義を、視覚の必要性を感じたことが無いというわたしのような人は、『見る』という行動を知り得ていません。
 視力は確かに出ているのに、見るということがわからず、手術前と同じような生活状態に戻ってしまう人も、決して少なくないということも聞きました。生まれたときから成長する過程で自然に理解していく色や形、遠近感、奥行きなどを学習でしっかり身に付けなければなりません。
 世界が丸々、変化してしまうのです。簡単に済ませることが不可能であることは承知しています。

 わたしには、手術を受けずに一生を終えるという選択肢もありました。

 でも。

 

 少しずつ。目を開きます。

 目を光に慣れさせながら、じれったくなるほどゆっくり。

 祈りを込めるように。

 涙を流しながら。

「――ああ」

 ようやく。

「あなたが。見える」

 初めて。あなたを、『見る』ことが、出来ました。

 まだ、しっかりとは見えませんが。あなたが微笑んでいることは、わかります。
 全身がえも言われぬ感覚で満たされ、感動に打ち震えて止みません。勝手に涙が零れては顎から滴り落ち、口角が独りでに上がってしまいます。
 ふるふると力の制御ができていない腕をあげ、強張った指で、手を。あなたの頬に添えて。あなたの涙に触れて。

 この喜びを、深く、強く、噛み締めます。

 何も見えない暗闇の中で、ずっとわたしの手を引いてくれていたあなた。

 わたしの導となって。わたしと一緒に歩いて来てくれたあなた。

 自分のことのように嗚咽を漏らしているあなた。が。

 愛おしくて堪りません。

 感情が溢れ出して、止まるところを知らずに脳天から足の指先まで暴れまわります。

 こんなの。

 ありがとうじゃ、伝えきれない。

 ひとしきり泣き合って、あなたに触っていることを確かめて。見えるということを必死に頭の中で分析して。
 再び、笑顔で見つめ合います。

「よかった、っ、本当に。良かった」

 まだ目尻を擦っているあなたを見て。これからに想いを馳せます。

 これからは。

 同じ景色を見て。同じ思い出を作って。同じことを想って。
 同じ道を、歩いて行くのでしょう。

 でも、その前に。
 予め、眼が治ったらすると心に決めていたことがあります。

 

 そう。今は夏。

 陰暦、八月十五日。中秋の満月、十五夜

 一年のうちで、最も美しく。 それ・・が見える日。


 わたしは夜空に燦然と輝くそれを見て、何故あなたが、人々が、崇拝の念を寄せているのか、理解することができました。


 それは、愛を包み隠し、相手に届ける言葉。


 それは、あまりにも直接的な愛の告白。

 

 

 

 

 

「月が、綺麗ですね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

月は綺麗ですか? 前編

 

 四、五年も前のこと、でしょうか。
 その日のことを、わたしは思い返すことがあります。

 

 

 

 

「月が綺麗、ですか」

 わたしがそう訊くと、あなたは少し息を呑んで固まり、すぐに慌てて口を開きました。

「あ、っと、すみません。つい」

 声色から感じられるのは、焦りと後悔。数えきれないほど向けられてきたその感情は、もう敏感に察することが出来てしまいます。そこまで気を遣わなくとも良いと思うのですが、わたしのこの裁量は、他の人からすれば理解が難しいのでしょう。
 それは、仕方の無いことではあります。でも。それでも、少し寂しく感じることがあるのも、事実です。

「大丈夫ですよ。そんなに気にしていただかなくても」

 だから。わたしの方から伝えなくてはなりません。これは半ば、我儘に付き合ってもらわなければならないこちら側の義務、でもあります。

「そ、うなんですか」
「はい。配慮されすぎると、逆に傷付いてしまうかもしれません」

 上手くできているかはわかりませんが、口角を上げ、にこやかな表情を作り、そう応えます。なるべくおどけてみせるように、過剰に重く捉えられないように。あなたには、誤解されたくありませんから。

 ちょっとだけ。わたしの右手を包む手に、力が入ったように感じました。

「難しい、ですね」

 苦笑交じりのその声は、困っているようにも、嬉しそうにも聴こえます。今は、それだけで十分。

 風が。

 冷たくも爽やかな気持ちの良い夜風が、わたしの頬を撫で、髪をふわりと持ち上げては後ろへ流れてゆきます。

「丁寧に、扱ってくださいね?」

 帰路の途中、河川敷、堤防の上。一人ではまず通ることはないでしょうこの道を歩くのは不安で。暦の上では既に春になっていてもまだ夜は肌寒く、外気に晒された肌は凍えているけれど。

 ぎゅっ、と。
 先程のたどたどしい決心に応えるように。わたしの右手を、一回りも二回りも大きいあなたの左手に絡ませなおします。

「……はい」

 元は一つであったことを錯覚させるほどに密着した手から、じんわりと温もりが伝っていって。全身を隈なく覆い尽くして。顔が火照って。
 この温度が、わたしと同等であって、それでいて全く以って異なる熱を持った人が、こうしてわたしの手を引いて、わたしの隣を歩いてくれているから。怖い、とは微塵も感じないのでしょう。

 こんなにも、幸せなのでしょう。

「ところで、月には兎がいるとのことですが、それは本当ですか?」
「えっ、その話続けるんですか」
「勿論です。あなたに綺麗と言わしめた月に、わたしも興味が湧いてきました」

 また、あなたは言葉に詰まります。でも、今度のそれは焦燥ではなく、思案に定められた沈黙。

 そういえば、月に心を留めたことはありませんでした。丁度良い機会です。あなたの言葉を待ち、風の音や虫の鳴き声に耳を澄ませます。

「自分の為にその身を捧げたという兎の姿を後世に伝える為に、帝釈天が月に残した、という話がありますね」
「成る程。じゃあ実際に兎の模様があると」
「うーん、それは……どうでしょう。そう見えると思って観れば、わからなくもない、くらい、かなあ」
「そうなんですか……。残念です」

 インドのジャータカ神話、帝釈天と兎の話から始まり、中国の兎が作るという不老不死の薬の話、それに関連して、日本では望月から餅つきに及んだという話、世界の地域ごとに模様を異なった形に見ていて、玉兎だけではなく蟾蜍せんじょ嫦娥じょうが、犬に蟹、ライオン、女性の横顔など、実に様々な例があるという話。

 中には少し齧ったことがあるものもあり、話の流れ自体は楽しかった、けれど。
 知識として、月がどのようなものであるかは聞き及んでいますが、やはりこの目で捉えることが叶わないわたしでは、どうしても実感が湧きません。そも、兎の姿を正確に知ってもいないのですから、月に描かれている兎、など。空想の域にも到達しない幻想に過ぎないのです。
 その当然を、これまでずっと。疑問を、感情を押し殺して享受してきたはずなのに。
 なのに。今は。

 もどかしくて、苦しくて堪らなくて。

「ロマンチックな話ができなくて、すみません」
「あっ、いえ、その。わたしも、意地が悪かったと、思います。ごめんなさい」

 それなりに経ってから、我ながら舞い上がってしまっていたということに気付き、恥ずかしい感情に襲われます。
 浅ましくも、嫉妬などを抱いてしまったことが。嬉しくも、悲しくも。

 駄目です。面倒くさい女であっては駄目なのです。きっと、こんなわたしを好いてくれるような奇特な人は、そうはいないでしょうから。

 風が木々を揺らす音、二足の靴がアスファルトを踏みしめる音。互いの息遣いすら聞こえてきてしまいそうな微かな騒音は、どうしようもなくわたしの不安を煽って止みません。
 自分が今どのあたりを歩いているのかさえ、わからない暗闇。ああ、わたし一人では、もうこの道は歩けないというのに。

「何故、月は昔から、人々に親しまれ、時に崇められ、特別な存在として描かれてきたのか。考えたことがあります」

「――え?」

 三度。憂いの静寂を打ち破ったのは、あなたの声でした。
 歩幅が縮こまってしまったわたしを、あなたの左手が、優しく引っ張ります。

「昔であればあるほど、月は神秘性を持つように語られていたと感じます。平安時代等であれば、天文学も無く、天体という概念も無かった」
「そう、ですね。月を詠んだ歌も多くあります」
「はい。歌人はこぞって月を詠いました。美しいものだと。では何故。月は、そこまで人々の心を掴むに至ったのでしょうか」

 これまでとは違い、あなたの言葉には、確かに力が籠っていることがわかります。でも、どうして。
 唐突に、あなたの歩が止まりました。つられてわたしも足を止め、戸惑います。きっとまだ、目的地には着いていないはずですが。

「月は、『しるべ』であったのではないか、と思うんです」

「導、ですか」
「ええ。電気などなく、火もそれほど自由に扱えなかった頃。夜はそれこそ、現代なんかよりもずっと闇は深く、真っ暗であったでしょう。だから、魑魅魍魎という恐怖が人に巣食っていた」

 見通すことが出来ない闇は、それそのものが畏怖の対象、幻妖として考えられていた、と。

「その闇を打ち払い、人々に安寧を齎す存在として月が在ったのだと、俺は考えました。夜にて導くもの。安堵を与えるもの。巡りと満ち欠けを以って暦と成るもの。総じて、人の導となっていたのでは、と」

 だから、人は月に畏敬の念を抱いたのだろう、と。あなたは語ります。

「それで、ですね。その、ええと。上手く言えませんけど、失礼かもしれませんけど。暗闇に囚われている昔の人と、重ねて考えてしまって」

 少し、向かい合うような形で身体をずらしながら。でも、手は離さず繋いだままで。

「当然、貴女あなたが一人で歩けないほど弱いとも、怖がりだとも思ってはいません。貴女のこれまでを否定するつもりも一切無い」

 なんとなく。あなたが言いたいであろうこと、言おうとしていることを察してしまいます。大丈夫、不快ではありません、失礼でもありません。
 あなたは左手を、指を絡ませているわたしの右手ごと、僅かに持ち上げます。

「それでも、今日のように。こんな風に、貴女の導となって、一緒に歩いて行けたらな、と……、不遜にも、思い、まして……」

 次第に小さくなってゆくあなたの言葉に、抗いようがなく頬が緩みます。寒くもないのに身体は震え、ぞわぞわとした感覚が全身を駆け回ります。
 一際大きい風がわたしたちをまとめて包み、柔らかく巻き上げ、吹き去って行きました。髪が乱れてしまうことはわかっていましたが、そんなことにはもう、意識は向いていませんでした。

「ぁー、え、っと。何言ってるんだろ俺、すみません忘れてください……」

「忘れ、ません」
「えっ」
「忘れませんよ。もう覚えました。脳裏に焼き付けました」

 上手くできているかどうかはまったくわかりません。でも、自分に出来る限りの笑顔で。あなたに。

 ありがとう、と。

 悶える心がむず痒い。身体をかき抱きたくなるほどの何とも言えない気持ち良さを伴ったこれを、あなたも味わっているのでしょうか。

「――っ、もう、行きましょう。すぐそこですよ」
「はい。お願いします」

 再び、わたしたちは夜の河川敷を歩き始めます。
 どうせ顔なんて見えもしないのに、あなたは先程より半歩前に出て歩きます。でも、わたしも今はあまり見られたくはないので、一応、奇しくも利害は一致していました。

 ただ、それでも。

 いえ、だからこそ、なのかも知れません。

「……できるじゃないですか」
「本当に、偶然なんで。やめてください、ハードルが」

 

 

 

 

 

 


 思えば。この時からでした。
 わたしも、あなたと同じ景色を、あなたが感じている世界を、見てみたい・・・・・と考えるようになったのは。


 月を、見てみたいと思うようになったのは。

 

 

 

 

 

 

 

  後編へ

善かれと想って

4,517字 

 

 人が死にゆくとき、最後まで残るのは、聴覚、らしい。

 だから私は、いつも遺族に同じ言葉をかけることにしている。

「感謝を、伝えてあげてください」

 息を引き取っても、直後であればまだ意識はそこにある。貴方のその想いは、その人に届くのだ、と。

 ベッドから離れ、遺族達へ場所を譲る。

「お、お父ざん……」

 泣き崩れながら。死者の手を握りしめながら。遺された人々はそれぞれの別れの詩を紡ぐ。拙く、辿々しく。

 後のことは私の仕事ではない。踵を返し、嗚咽で満ちる病室を後にする。

 死に直面するとき、人は少なからず素直になれる、と私は思う。

 失って初めてその大切さに気付く、などはよく聞く話だし創作の分野では典型例だ。今まで反発していた子供達が親の死の間際に涙を流しながら謝ることも、理解し合ってこなかった夫婦が考えを伝えることも、よくあることで。

 馬鹿馬鹿しい。

 とても馬鹿馬鹿しい。

 そんな最期の最後まで正気になれないのは明らかにおかしい。それが大切なことだと分かっているならば尚更だ。

 意思の伝達がそんなに難しいことなのか。少し口を開くだけで済むことではないか。

 私達の手助けがなければ出てこない感謝など、所詮自己満足の範囲を抜け出さない。何十何百何千と聞いてきた私には、もう全てが空虚な風の音と同じに響いてしまう。

 だが、それで遺族が満足すればそれでいい。私達は何とも言えないが、死者が心安らかに天国へ旅立ったのだと信じてもらえれば、それでいい。病院側にクレームが来なければ十分。

 回診の時間だ。カルテを片手に携え、また静かな廊下を歩いていく。

「ほら泣き止みなさい。他の患者を不安にさせるでしょう」

「ゔぅ……っ、」

 叱られた子供みたいにぼろぼろ号泣する新人看護師にも、情けない以上の感情は湧かなくなった。数年前までは、そんなことではやっていけないぞ、とも思っていたはずだが、もうどうでもいい。

 毎年毎年、優に百万人は死んでいるのだ。そのうちのたった一人ずつに対する感慨など、とうの昔にどこかへ消え去った。

 そりゃあ、惜しまれないよりも惜しまれる死の方が良いとは思う。だが、その惜しむ惜しまないは飽くまで遺族が決めることに過ぎない。死にゆく者には関係ないこと。

 私が死ぬ時は、どうか安らかに、楽に逝きたいものだ。

 

 

 

「家族の方が来るまでなんとか保たせてください、とのことです」

 若い看護師は、病室に駆け込むなり私達にそう告げた。

「何分だ」

「早くて二時間だそうです」

 ふざけるな。

 暴言が口から出かかって、なんとか留める。いや、言ってもよかったか。

 無茶な注文だろうが、これも仕事だ。訴えられては困る、やることはなっておかねばならない。

「手が空いてる医師を呼んでおいてくれ。蘇生処置に入る」

「はい」

 電気ショックの準備を指示し、危篤状態に陥っている患者の服を脱がせる。痩せ細って骨が浮き出た弱々しい身体。これは、厳しくなりそうだ。

 既に心停止、なんとか生命を繋ぎとめておいたとしても意識は戻らない可能性が高い。

 それでも、今回のような、どうにか生かしておいてほしい、という要求は時折くる。自分たちが駆け付けるまでの時間を稼いでほしい、という旨の。

 マウスピース越しの人口呼吸、胸骨圧迫を始める。

「……っ」

 体重をかけて何回か押すと、割り箸を割るときのような乾いた音が幾度も響く。まだ、そんなに数はこなしていないが、この罪悪感には慣れない。

 老齢の患者に対して心臓マッサージを施すと、いとも簡単に、肋骨が折れる。骨は密度が低下し脆くなっているのだ、それはもう、呆気なく。

 折れた骨は肺やそこらに容赦なく突き刺さり、苦痛を与え、出血させる。

 もし意識があったならば、それは凄まじい痛み、地獄の苦しみであろうことは想像に難くない。やっているこちらの気分も悪くなる痛々しさだ。

「離れてください、電気ショック、流します」

 除細動器に依り人体が大きく跳ね、一時的に心臓が停止する。殺すためではない、行き返せるための一時的な措置。

 また、続けて心臓マッサージと人口呼吸を繰り返しているうちに、他の医師が交代に来る。

「代わるよ」

「お願いします」

 まだまだ若手のつもりだったが、思ったより体力は衰えているようだ。それでもある方だろうが。

 先輩が蘇生を試みている姿を見ていると、身体をぼろぼろにされながらも無理やりに生き還らされている患者を見ていると。私たちは一体、何のために頑張っているのだろうか、と、ふと虚しい気分になってしまう。

 誰が望んだのかというと、それは遺族たちだ。

 気持ちはわかる、彼らだって、この患者を直に看取りたいだけ、なのだろう。それは別に悪いことではない、普通の要望だ。

 だけど。

 ならば死期が近いこの人の側に、誰かしらが付いていてあげれば良かっただけの話ではないのか。前もって危険な状態であることは伝えてあるはずだ、だったらそれ相応の対応をしておくのが筋、ではないのか。

 自分たちは何もしないのに、自分たちがいいことだけ享受するのは、図々しいと思わないのだろうか。

 自分たちの勝手な都合で、尊厳ある死を冒涜していると、微塵も思わないのだろうか。

 俺ならば。俺なら、絶対にそんなことはしないし、してほしくはない。

 今度、妻と娘と話し合っておかなければ。

 

 

 どこからどこまでが「生きている」ことになるのだろう。

 息をしていなければ死んでいるのか。爪や髪が伸びなくなれば死んでいるのか。心臓が止まれば、もしくは瞳孔が開けば、それは死んでいることになるのだろうか。

 死を定義するには、まず生きているとはどのような状態であるか定義する必要がある。しかし意外か、その定義はきちんとなっておらず、つまり我々はまだ、生と死の境界を観測することが出来ていない。

 止めよう。最近は、歳をとったのか、余計なことを考えることが多くなっている。仕事に集中しなければ。

 扉を開け、物音のしない病室に足を踏み入れる。そこにはいつも通り、二人の人間がいた。

「先生……こんにちは。今日はいい天気ですねえ」

 ベッドの脇のスツールから立ち上がり、綺麗なお辞儀をする女性、と、ベッドの上で微動だにしない、男性。

 見飽きた配置、見慣れた角度。ここ数ヶ月、変わらない光景だ。

「……どうも。良い秋晴れ、ですね」

 男性は、ここに来てから、一度たりとも目を開けたことはない。

 自発呼吸は可能、血液循環も正常。覚醒の機能は保持されている、しかし、意識は戻らないまま。

 俗に言う、植物状態。大脳が死んでいる状態、とも言い換えられる。

 回復する可能性はあるが、意識が失われている期間が長引けば長引くほど、それも低くなっていく。この患者であれば、自立して生活出来るまで治る確率はもう、十もあるかどうか。

「…………」

 容体にも、沈黙に包まれるこの病室も、ずいぶん前からずっと、変わらない。

 女性は、面会時間のほとんどをここに座って過ごしている。男性が目を覚ますのをひたすらに、待っている。

 彼は、医学的には、生きている。日本では大脳のみならず小脳と脳幹全てが死ななければ、脳死とはみなされないからだ。

 しかし、彼は本当に、生きていると、言えるのだろうか。

 意思のままに身体を動かすことも、自ら口を開き言葉を紡ぐことも、能動的に外界の刺激を享受することも出来ない彼は、果たして、人間として生きているのだと、言えるのだろうか。

 俺は、いや、私には、わからない。

 いくら生命を永らえさせたとしても、本人にはその自覚も、実感も無い。そこにあるのは生物学的に生存している肉体だけ。

 そしてそれを望んだのはこの女性だ。

 彼女は毎日ここに通い詰め、段々と、正気を失っていっている様にも感じる。それはそうだ、治る見込みも薄い人間の病状を一日中ずっと慮っていれば、気だって滅入る。疲れだってする。

 では一体、彼女は、誰を想ってその選択をしたのだろう。何を考えて、恐らく誰も幸せにならないその判断を下したのだろう。

 私とてそれなりに歳を重ねてきた、こんな場合も、幾度も遭遇した。

 決して、わからないわけでは、ない、はずだ。その気持ちを推し量ることは、不可能ではないはず、だけれども。

 やはり、私には、わからない。

 

 

 

 

 とても長い、しかしとても短い、夢を見ていた気がする。

 目が覚めた感覚はする。思考は出来る。だが視界は開けない。身体は動かない。意識だけが中空に漂っているような、不思議な気分。

 ゆっくりと、夢を見る前の記憶が、掘り起こされていく。ぼんやりとしていた頭が、徐々に冴えていく。

 どうやら、私は寿命を迎えるところだった、と、思う。最後は仕事をしていた覚えがあるので、脳梗塞脳出血やらで倒れたのだろう。いや、こうして意識が戻ったのだ、一先ず原因はいい。

 だとすると先程の夢は走馬灯か。そして、何らかの理由でこうしてまた意識を取り戻した、と考えるのが妥当なところ、だが。

 色々なことを思い出していくに連れ、頭部に、胸部に、腹部に、全身に、痛みが生じていく。それはじわじわと広がり、私のあらゆる部位を苛んでくる。

 多少痛みには強い方だと思っていたものの、次第に大きくなる疼痛は今までに体験したことがないほどに激烈で、とてもではないが耐えられる代物ではない。無意識に、勝手に身体は捻れ、口は呻き声を発しようとする、いや、した。

 しかし、声は上げられず、指の末端に至るまで何一つ随意に動かせない。刺激に対して、何の反応も返すことが出来ない。

 これは。

「父は、父は助かるんですか⁉︎」

 突然聴覚が回復し、娘らしき人物の、聞きなれない悲鳴のような声が感じ取れた。

 次いで機器が稼働する音、二、三の人が駆け回る足音。誰か、私に気付いてはくれないものか。そこに居るのは私の後輩であろう、早く診断を。

「……取り敢えず生きてはいる、というところです。なんとか蘇生には成功しましたが、ここからは良くてこのまま、植物状態、でしょう」

 何を、言っているんだ。

 遷延性意識障害とは違う、私は自分自身や周囲を認識出来ている。どういうことだ。私の意識が戻る前に判別をしてしまったというのか。

 これは閉じ込め症候群、違う、眼球ですら随意に動かせない。完全閉じ込め症候群、だ。意識があるにも関わらず、誰にもそのことが認知されず、気が狂うような虚無に囚われるという、悪夢のような症例だ。

 どうすればいい。どうすれば、私は意識があると伝えることが出来る。どうすれば、強くなっていくこの地獄のような痛みから解放してくれる。

 いや、生き延びることを考えなくても良い。このまま死なせてくれても、私は楽になれる。そして私はその旨を家族には既に伝えて「植物状態、でも」ある、はず、だけれども。

「良いんですか?   自力で生きられなくなったら殺してくれと伝えてあると聞いてますが」

 そう、そのはずだ。

「……はい」

 まさか。

   話し合っただろう。止めて欲しいと言っておいただろう。

   この苦しみから解き放ってくれ。

   これ以上は。

   頼むから、止めてくれ――

 

 

 

「父を、生かしてください」

 

 

殺人なんて、あるわけないじゃないですか。後編

17,321字

 

 

「それ、は……本当、なのか」

 責任者さんは、喜びでも悲しみでもない複雑な反応を返す。

 本当は不安で仕方なかったのだろう、身体が小刻みに震えている。それもそうだ。一時の感情に突き動かされ、下手をしたら人を殺していたかもしれなかったのだから。

「わたしと、そちらの文化祭実行委員さんの記憶が正しければ。後で詳しく調べてみないと細かいことはわかりませんが、恐らく」

「…………っ、は」

「おっと」

「大丈夫!?」

 自分は犯人ではない、という言葉に安心したのか、責任者さんはふらりとよろめき膝をつく。部長さんと部員さんが慌てて支える。

 頑張ったのだろう。抱えきれなかったのだろう。男子学生一人が押しつぶされそうなほどの重みが、傾いだ彼の背から零れ落ちてゆく。崩壊の音をけたたましく響かせて。

 それでも結局、彼が悪意を持って犯行に及んだことは紛れもない事実のままだ。

 許される、許されないの問題ではない。自分がしたことに責任をもつのは義務に他ならない。

「会長」

「おう」

 目線を交差させ、申し訳なさを伝えると、任せとけ、との意が返ってくる。

 情けないけれど、この場を円滑に終わらせられるのは先輩だけだ。

「と、いうわけで。オレもどうすればいいのかよくわからない感じになりましたが。勝手ながら、ここいらで一旦お開きとしませんか。彼も休息が要るでしょうし」

 乾いた笑いを張り付けた責任者さんは精神的に限界だろう、文化祭への復帰は困難としか。

 それに、怒涛の展開に疲弊しているのは彼だけではない。これ以上続けるのは得策ではない。中でも家庭科部組は話し合う時間が必要だ。

「まあ、話は今日の文化祭一日目が終わってからにしましょう。明日を少しでも晴れやかに迎えられるように」

「そ、うですね。あとで職員室のぼくのところまで来てもらえますか」

「了解しました。ではこれで。出ましょう」

 あからさまに慇懃に振る舞う先輩に促され、全員が調理室を後にする。

 文化祭実行委員さんと家庭科部部長さんが軽く会釈をしたくらいで、皆は言葉もなく散り散りに、文化祭の喧噪に消えていった。

 

 

 

 あとに残されたのは、わたしと先輩だけ。微妙な間が開く。

 実時間にして約三十分ほどの疑似解決であったけれど、それよりはるかにかかった気がしてならない。

「どうしますか、これから」

 難しい顔をした先輩は応えず、顎に手を当てて何か考え事をしている。わたしの声は届いていなさそうだ。

 手がかりは、これで途絶えたのだ。犯行は行われたけれども成されてはいなかった、キャッサバの毒は生活指導主任に効かなかった。

 しかし、だからといってこれで終わり、という風にしてはならない、出来ない。

 あの二年五組の教室責任者さんが犯人ではなかった以上、今朝の件の犯人は他にまだいる。この学校の敷地内に、きっと。

「心当たりが、ないわけではない」

「とは」

「確証はないんだ、そもそもその方向で考えてなかったんだけど、今のが違っていたなら、有り得るかもしれない、程度の話で」

 いつも自信満々でいる先輩のくせに、何故か歯切れが悪い。先輩のくせに。

 よっぽどキャッサバのくだりに自信があったのだろうか。筋道も通っていたし、分からないではないけれど。

 でも、他に候補も情報も疑惑も見付けられていない現状、先輩のその心当たりを頼りにするしかない、というのも事実であって。

「言ってくださいよ。それしかないんでしょう?」

「それはそう……なんだが。証拠が現物で確保できていない限りは、ただの妄想の域を出ないんだ。せめて、ビール缶の一本でも残ってればまた違ってたんだろうが、そんなヘマはしないよなあ」

 難しい顔をして、結局詳細については教えてくれない先輩。の、独り言じみた部分の一つの単語が、意識の端に引っかかった。

 あれ、そういえば。

 関係ないものだろうと思い、特に気に留めなかった要素、物品、証言があったはず。

 それは、一体、なんだったっけ。

「一先ず、生徒会室に戻ろう。この時間帯には誰も戻って来ないはずだ、作戦を練ろう」

「といっても、わたしたちだけではもう手詰まりなのでは?」

「まあそう急くな。ちゃんと応援は呼ぶさ」

「ちょ、ちょっと今ここではやめてください」

 ちゃっかり持ち歩いていたスマートフォンを操作し、誰かに連絡をとろうとする先輩を慌てて止める。周囲には一般客もいるのだ、役員Tシャツを着ているわたしたちが率先して規則を破っていれば示しがつかない。

 しぶしぶ、といった調子に仕舞う先輩の手を引く。幸い生徒会室はすぐそこ、特別棟と教室棟を繋ぐ渡り廊下の近くにある、早く連れて行かねば。

 先輩を半ば引き摺りながら歩いていくと、人の合間から遠目に、生徒会室を覗き込む人の姿が捉えられた。

 それは見覚えがあったし、何なら先刻遭遇したのと同じ人物であることが容易に分かる。

「どうしたんですか?」

「あ、書記ちゃん。ちょうど良かった」

 午前の終わりにごみ捨て場で出会った若手の物理教師は、少しほっとしたように笑む。

 どうしたのだろう。何か用だろうか。それともさっきのことで。

 さっきのこと、で。

「あれ、生物の主任は? 一緒じゃないのかい?」

「お、ええ、今別れたとこですよ。職員室に向かってるはずですけど。呼び出しでもあったんすか」

「そんなとこだ。ありがとうな」

 生物主任、家庭科部の顧問のことだ。ちょっと無理言って来てもらっていたので、呼び戻しがかかったのかもしれない。

 普通に戻った先輩が、一拍返事をし忘れたわたしに代わって答えてくれる。先生はそのまま、渡り廊下から教員棟の方へ向かおうとして。

 そうだ思い出した。でも、これは先輩のいう「心当たり」に該当しているのだろうか。

 いや。

「先生」

「ん、どうした?」

 迷っていてもどうにもならない。背を向けた先生を引き留め、先輩の方へ振り返る。

「先輩、証拠。なんとかなりそうですよ」

「?」

 何のことだ、と言わんばかりに目を丸くする先輩。どうせなら自信満々に振る舞ってしまおうか。

 正直、朝の件とは関係があるとは思えないけれど。まあ、どのみち進展が無いよりはマシだと考えよう。

「言っていたじゃないですか、ビール缶の一本でもあれば、って。すぐそこで」

「ちょ、ちょっと書記ちゃん……?」

「そんなこと言ってたか? んでも、なんで」

「ここでは駄目なので、とりあえず生徒会室入りましょう。先生も、大丈夫ですか?」

「そこまで急ぎではないだろうし、少しならいい、けど」

 元からそのつもりだったわたしと先輩、と巻き込まれる形の先生、三人で生徒会室に入る。三方向の窓により見られはするけれど、話し声を遮る役目はきちんと果たしてくれる。

 本来八人以上で使用することが前提の部屋であるため、三人だけではやけに広く、また寂しくも感じられた。

 エアコンが効いているため、熱気は伝わってこない。ひんやりした空気が心地よい。

 ここで食べたのだろう、お好み焼きや焼きそば、カレーなどの残り香が微かに香る。その中には、当然アルコールの類は混入していない。

 物理教師、からも。

「ええと、会長くんはどこまで知っているのかな?」

「なんもわかんねっす。流石に察しはしましたけど」

 まあとりあえず座りますか、と先輩は着席を促し、自分が一番に座る。勢いに流され、というか断る必要もないので三人で三角形を描くように長机を囲んで座った。

 神妙な空気が生徒会室を満たす。

 文化祭の熱狂が波になり伝わってきて、部屋全体を緩やかに揺らしているような錯覚を覚える。

「酒っすよね」

「……ああ」

「酒盛りのメンバーは、生活指導主任と教頭、チア部顧問、吹奏楽部顧問で間違いないですか?」

「……あ、ええ?」

 いつもとまるで変わらない飄々とした態度で。先輩は確信を突いてみせた。

 先生のその反応から判断出来たのだろうか、そのまま続けていく。

「証拠をください。酒の瓶、缶、紙かプラのコップでもいいです。彼らが今朝アルコールを摂取していたという証拠があれば、犯人を追い詰めることが可能です」

「いや、それは……」

 あまりにも唐突、いや、そうでもないか。先輩の中の心当たりが確証に変わっただけだ。

 しかし、先生にも立場がある、隠蔽の片棒を担いでいたことが明るみに出れば処分は免れない故に、二の足を踏む。

「心配ないっすよ、状況的な証拠ならありますんで。“誰が”飲んでいたかについては独自に追及出来ます」

「なんだ、あるんだったらそれでいいんじゃないのか?」

「いや、そうだったら簡単なんすけどね」

「駄目なのか」

「駄目ですね。っつか、中途半端な物を出しても認めないでしょ。そんな朝っぱらから酒盛りするような人種は」

「うーん、そう言われればそう、だな……」

 どうにも、手の内を見せずに立ち回ろうとする先輩のせいで、話に付いていけている気がしない。

 えっと、今日の朝に酒盛りがあって。その参加者は生活指導主任と教頭とチア部の顧問、吹奏楽部の顧問で。先輩はその酒盛りがあった証拠を持っていて、でもそれは説得力に欠けていて。先生が持っているであろう直接的な証拠を欲しがっていて。

 校内で飲酒。それは十分すぎるほど大きな不祥事に違いない。長引いた会議はそのためだった、のだろうか。

「それで、その証拠はどんなものなんですか?」

「んー、もうそろそろ来るはずなんだが」

「来る?」

「さっき言ったろ、応援呼ぶって」

 背もたれに寄りかかり、生徒会室の外に目を向けた先輩が、そう言うと同時に。

 まるで図ったかのように扉が開けられた。

 先輩の椅子が倒れる。

「はいお待たー、っと、何してんの?」

「び、びっくりした」

 あ、図ってはいなかったみたい。大丈夫ですか、後頭部打ち付けてないですか。大丈夫そう。

 入ってきたのは、ショルダーバッグを掛けた、見覚えがある女生徒。多分二年生、先輩と一緒にいるところをよく目撃するし、対等っぽいから合ってるはず。

 確か、新聞部の部長、だったかな。とするとバッグの中身はカメラか。

 先輩は椅子を直しつつ立ち上がり、新聞部長さんに軽快に歩み寄った。

「それで。ちゃんと撮れてたか?」

「一応は。伝えてある通り、直接的なのは無理だったけど、なんとかそれっぽいのはね」

「充分だ。ありがとな」

 新聞部長さんはショルダーバッグから何枚かの写真らしきものを取り出し、先輩に手渡す。

 それらを捲りながら確認し、先輩は数度小さく頷いた。

「よし、これならいける。今度なんか奢るわ」

「回らない寿司なら」

「それは無理。オレの財布が痩せ細って死ぬ」

「元から太ってないじゃん」

「尚更だって話だ」

「じゃあ回る寿司で手を打とう」

「これがドアインザフェイスかー、勉強になるわ」

 話の内容と流れからして。それが。

「それが証拠、ですか?」

「おう、見てみ」

 先輩は元の席に戻り、机の上に、わたしたちの方に向けて写真を置き、進めてきた。

 先生と共に、それらを覗き込む。

 一枚目は、窓を大きく写したもの。しかしカーテンが閉められ、中の様子は窺えない。

「これは、どこの窓かも室内もわからないな」

「ですね」

 先生と同じ感想を共有する。

 これだけでは、何の情報も得られない、証拠には成り得ない。

「あれ、でもこれ、窓自体は開いてないですか?」

「良いところに気付いたな書記ちゃん。では次」

 そう言って先輩が一枚目を取り去る。楽しんでやってないですか先輩。違いますかそうですか。

 二枚目は、一枚目と同じく、カーテンが閉められた窓をズームアウトしたもの。しかし周りの感じから、調理準備室の窓であることが分かる。

「見た通り調理準備室なわけだが。先生、心当たりがありますよね」

「……酒盛りの現場、だな」

 なるほど、こうして開催現場自体は押さえていたわけか。でも、中が見えなければ、誰がいるのかが分からなければ証拠にはならないわけで。

 それは先輩もわかっているのか、既に二枚目も端を摘まんでいる。

「三枚目いっていいすか」

「勿論」

 捲られた後には、大きく外に出て揺れるカーテンが見えた。つまり。

 中が窺える。残念ながら個人の特定はできないものの、テーブルの上に乱雑に置かれた缶、瓶は遠目に確認できた。

「酒の種類くらいはオレでもなんとなくわかります。これが疑いの根拠なんすけど」

「これを、君が?」

 写真を見た先生は、生徒会室の出入り口付近で手持無沙汰に立ったままだった新聞部部長さんに声を掛ける。

 先輩に渡した後は興味なさげにしていた彼女は、渋々といった感じに口を開く。

「如何にも怪しそうな雰囲気を醸し出しながら調理準備室に入って行くところを目撃したもので。しかも大きな袋提げてたから、撮ってみた次第です」

「な、なるほどな……」

「はっきり特定できるレベルのものが撮れなかったので、出来に関しては心外もいいところですが」

 道理で。そのポリシー? の所為で不機嫌だったんだろうか。

 兎に角、これに因って先輩が疑惑を抱いたのだ。朝、会議室や昇降口、捜査の途中でしきりにスマートフォンを確認していたのも、彼女とこの件に関して連絡を取り合っていたのだと考えれば合点がいく。

 そしてまだ、判明していない理由は。

「でも、中に居た人たちを撮ったものもあるんですよね?」

「ご名答」

 四枚目、と言わず。その下に重ねられていた幾枚の写真を、先輩はマジシャンがトランプを見せる際にするように広げてみせた。

 もう、自然と場所はわかる。調理準備室前、出入り口の扉を捉えたものだ。角度的に階段のところに隠れながら撮ったのだろうことが伝わる。

 連続性を証明するために、五、六枚ほどをあまり間を開けずに撮影されているそれらには。

 扉を開き出て行く手ぶらの教師、合計四人の姿がしっかりと写っていた。生活指導主任、教頭、チア部顧問、吹奏楽部顧問。

「これで特定したわけか」

「残念ながら施錠されていたので中は検められなかったうえ、恐らく丁度回収に来た人物とは入れ違いになったかで、直接的な証拠は得られずじまいでしたけどね」

 新聞部部長さんの写真と、その言葉を受け、記憶の縁で想起されるものがあった。

 何か。引っかかることがある気がする。けれど、違和感程度で、言語化できる段階にない。

 これで先輩たちの「証拠」は打ち止めらしい、先輩は写真を脇に寄せて、先生と改めて向かい合う。

 あとは、先生の持つ「証拠」を手に入れるだけ、と、その眼が語っている。

「……僕も、深いところは知らないんだ。それこそ酒盛りが本当にあったとして、それが今朝の昏倒事件に繋がっているのかどうかも」

「最初はオレもそうでしたけどね。単純に、不祥事を暴いて弱みを握るだとか、曖昧な理由と好奇心で動いてただけでしたし」

「でも君はわかったんだろう?」

「そう何度も確認とられると不安になってきますけど。それなりに自信はあります」

 先輩は、肘をつき掌を組み、先生を見据える。新聞部長さんは、少し離れた窓際で腕を抱えて傍観の構えをとる。

 先生は。力を抜いて、パイプ椅子の背もたれに寄りかかった後、再び身を乗り出す。

「聞かせてくれ」

「勿論」

 そう言い放つと、先輩は大きな音を響かせて立ち上がり、生徒会室に備え付けのホワイトボードに備え付けてあるマーカーを手に取った。

 文化祭の日程や業務内容、連絡事項や昼ごはんのオーダーなどが書いてある中で、比較的大きく残っている余白に、黒いインクが走り、形を成してゆく。

「まず前提として。今日、生活指導主任は風邪を引いていました。まあちょっと咳が出る程度の軽いもんだったんでしょうが」

 丸の中に「主」とだけ書かれた記号の横に、「風邪」という文字が加えられる。

 わたしは直接目撃してはいないけれど、聞き込みの際の証言からして間違ってはいないだろう。

「最近忙しかったんでしょうね、多少体調が悪くともそんなに気にせずに学校に来たと」

「確かに、教員の間でも夏風邪が流行り気味だったな」

「でも、出勤したら思ったより辛くなってきたのか、それとも可愛い女生徒に渡されて無下には出来ないとでも思ったのか。風邪薬を呑んだわけですわ」

 少し悩んだ末に、主任を表す記号から少し離れた位置に「チア部」と書いた後、先輩はそれを丸で上手いこと囲めないか試み、諦めて文字を潰しつつ丸を上書きした。

 そりゃそうだ、「主」と同じ大きさで「チア部」と書いたら同じ大きさの丸で囲めないのは当たり前だ。

 当の先輩は素知らぬ顔で「チア部」から「主」への矢印を引き、それに「風邪薬」と添えた。

 そういえば、チア部部長は生活指導主任に風邪薬をあげたと言っていた。喜んでいた、とも。

「それで酒盛りに出た、と。書記ちゃん、これで何か思い当たることない?」

「えっ」

 先輩は、「主」を含める大きな丸を書き、頂部に「酒盛り」と付けながら、問うてくる。

 思い当たること、思い当たること。とは。

 ここまでの要素は、風邪を引いていたということと、風邪薬を呑んでいたこと、それでお酒を飲んでいたこと、くらいだけど。

 少ない手がかりだけでわかることが、あるとすれば。

「……飲み合わせの話、ですか」

「流石書記ちゃん、正解だ」

「どうも」

「どういうことだ?」

 残念ながら先輩が酒盛りに参加していた人たちの分の記号をも書き始めてしまったので、先生への説明はわたしがやることになったようだ。

「えっと。お酒と薬を一緒に摂ると、薬効が増える、つまり、効きすぎてしまうことがあるんです。睡眠薬等が良く知られているとか」

 昨晩の健康番組か何かで聞きかじっただけではありますが、と念のため付け加えるけど、先輩からの訂正がないということは恐らく合っている。

 では、となると。

「それじゃあ、あの人はそれを知らずに自爆した、ってことか? もしくは薬を渡したそのチア部の子、だったり」

「どっちも違いますね」

 新しく三つ、丸の中に「教」「チ」「吹」を入れた記号を「酒盛り」の中に書き終えた先輩が即座に否定する。

 それぞれ、教頭、チア部顧問、吹奏楽部顧問、か。どれもまあまあわかりづらい、今更だけど選ぶ形式を間違えたのでは、と思う。

「先生も知ってるはずですよ、チア部の顧問と吹部の顧問の仲が悪い、という話は」

「ああ、そういえば。その二人が仲良く酒盛りするのはおかしい、ってことなのか?」

「まあそういうことです。この集まりは偶然ではなく、意図的でなければならないんですよ」

 その二人の不仲は、原因は不明だけど有名だ。チア部に行くときに思い出した。

 誰かがわざとセッティングしなければ、自然とそうなるはずがない。

「チア部部長――薬あげた子ですけど、それは偶然だと思われます。渡したところで、呑んだかどうかまでは彼女は見ていない」

 確か、生活指導主任が薬を呑んでいたのは音楽室近くの水道。吹奏楽部部長さんが見ていたはず。

 でも、それではまだ可能性自体は残っている。

「ちょっと待ってください。誰かがわざと酒盛りを開いたとしても、それに、本当に偶然、参加してしまっていた可能性はありますよね」

「そうだな、それも消しきれない、無きにしもだ。教頭が開いてたらな」

「教頭先生、だけなんですか?」

「残りの二人には、風邪薬服用を知る機会があるからな。チア部部長、吹奏楽部部長がそれぞれ薬を渡した、呑んでいたのを目撃したのはどういうタイミングだったかは覚えてるよな」

 それはもちろん、朝。各部活の事前指導の時間である。

 ステージに立つ団体に対して注意やタイムスケジュール上の制約等を説明する場。に。

「指導、検査が入る場に、顧問がいないはずがない。つまりその二人は、風邪薬に対して各部長が持っていたものと同等の情報を有している、と考えていい」

「そうか、じゃあそのうちのどっちかってことだな」

「このままいけばですけどね。教頭説へのフォローとしては、隠蔽する側としての責任者だから、というのを言っておきましょうか。何かあれば責任を問われるのは会議の音頭をとっていた教頭だろうし、そうなる可能性を見越してやったってのは考えづらい。教頭は隠れ蓑に使われたとするのがもっともじゃないかな」

「ううん、それも一理ある」

 これで、今の容疑者としてはチア部顧問と吹部顧問のどちらかに絞られるわけだ。どちらも、という道も一応無くは無いけれど。

 そういえば先輩は、長机まで出張ってきたおかげで、始めに使っていたホワイトボードの存在を忘れていやしないだろうか。

 目でその存在を匂わせると、先輩は一瞬固まってからまたそちらへ寄っていった。忘れていたようだ。

「忘れてないですよ。必要がなかっただけなんで。では続きですが。ぶっちゃけ犯人はこっちです」

 先輩はその手のマーカーで、候補に挙がっている二人のうちの片方に二重、三重に丸を付ける。

 吹奏楽部顧問の方に。

「そっち、なんですか」

「ん、そんなに不思議か?」

 動機に関しては、生活指導主任の運動部至上主義がそれに該当するだろう、けれど。

 何より、チア部顧問が化学教師なのに対して、彼は音楽の教師だ。その類の知識に堪能だとは思えない、断定するには信憑性が些かばかり足りないように感じる。

「いやいや書記ちゃん、さっき言ってたじゃん。『昨晩の健康番組』さ」

「あ……」

「つまり、誰が知っていてもおかしくないんだ、これに関してはな」

 普通に考えるならば、化学や生物の教師が、彼らくらいしか知り得ない知識を用いてばれないように犯行を行ったととる。

 でも、それを踏まえたうえで。一つ裏をかくならば。そういう考え方をされると、予め想定できていれば。

 マーカーが動く。「吹」と「チ」を同等の矢印が結び、「嫌い」を冠する。そして、「吹」から「チ」へと。太い矢印が、描かれた。

「何故、仲が悪い相手を酒盛りに呼んだか。いいですか、この集まりは『意図的』なんです」

「そうか、相手を貶めようとする為に……!」

「確かに、そうでなければわざわざ呼んだりはしない、ですもんね」

 故に。

 運動部至上主義により不当な扱いをされていたであろう、という動機があり。

 生活指導主任が風邪であること及び風邪薬を服用していることを知り得ていて。

 酒盛りの隠蔽に関して真っ先に責を負わなければならないという立場でもなく。

 恐らく教頭を通して、敢えて仲の良くない相手を故意に呼んだ理由が説明出来る人物が。

「よって。吹奏楽部顧問が、犯人であると考えられます」

 

 

 

 

「――よく、わかったよ」

 幾許かの沈黙を経て。先生は、頷きながらゆっくりと、そう呟いた。

 壁掛けの時計は、先程の調理室での解散から僅かに四半時が過ぎた時刻、午後二時十分を示していた。文化祭一日目の終了まで、もう一時間を切っている。

 まだまだ、その熱狂は維持されている。むしろこの時間帯が人の入りは最高潮だ。学校の至る所からの人の声が、歌が、雑踏が。生徒会室の静寂を乱雑に踏み荒らしていく。

 しばらく動きが無かったことから、汗は完全に引き、若干の寒気が身体を震わせる。

 何が、わかったのか。その答えは、程なくして伝えられた。

「酒の瓶、缶は証拠として使うといい。君たちに協力しよう」

「ありがとうございます。必ず突き止めますんで。任せてください」

 朗らかに、晴れやかに。先輩と先生は笑顔を交わす。

 きっと、先生がまだ隠していると思われる酒盛りの証拠を使えば犯人――吹奏楽部顧問を追い詰めることも出来るだろう。

 例え本当には実行しないとしても、DNA鑑定がどうとか言って、新聞部部長が撮った写真と共に問えば。

「でも、そこまで先生が思い詰める必要もなかったんじゃないですか?」

「え?」

 きょとんとする先生は、きっと自分の進退等と、犯人を見つけ出し悪事を裁く正義を秤にかけ、熟考したうえでその判断を下したのだろう。

 しかし。よく考えなくとも、先生が前面に出てくる必要はないのではないか。

「多分ですけど、まだ持っていることは伝わってないんですよね?」

「だと思う、けど」

「なら、普通に指定通りにごみ置き場に置いておいたってことにしておけば。その後にわたしたちが自主的に見つけても、それも自然な流れになりませんか」

「い、言われてみれば……」

 まあ、どちらにせよ、証拠のアテはついたし犯人の特定も済んでいる。

 あとは、解決するだけだ。大丈夫、問題ない。それもすぐ終わるはず。

 もうすぐで、平和な文化祭が、いや、平和な二日目が。迎えられるのだ。

「とりあえず証拠の確保からだな。行くか」

「どこに置いてあるんです?」

「教員棟南階段の下の倉庫に隠してある。文化祭中は誰もあそこら辺通らないからね」

 意気揚々と皆立ち上がり、酒の瓶、缶が入っている袋をまず回収するべく、出発。

 しようと、していたのだけれど。

 顎に手を当て、何か考え込んでいる様子の新聞部部長さんだけが、その場から動かなかった。

「何してんだ? 行くぞ?」

 生徒会室の扉を半分ほど開けたところで、先輩がそんな新聞部部長さんに気付き、声を掛ける。

 俯いていた彼女はゆっくり目線を上げると、小さく、しかし確かに、言葉を発した。

「……待った。おかしい」

「どこがだ?」

 自分の思考を改めて確認するように、新聞部部長は斜め下を向き、一度、大きく頷く。

 今日だけでもう何度も味わった、不穏な空気。それと同質のものが、生徒会室を覆い隠す。また、日常から切り離される。

「先生。昨日、会議はどれくらいまで続いていました?」

「え、っと、確か夜の十時半くらいまで、かな。教員は多分、今日病欠で来れてない人以外はみんなその時間までは学校にいたはずだ」

「書記ちゃん、昨日の健康番組。何時くらいだったか覚えてる?」

「確か、家に着いたら家族が観ていたから……八時、から、の、一時間番組、でした」

 そうか。

 そういうことか。

 そういった類の食い違いか。

「観ていた家族に教えてもらった、とかは」

「無いな。吹部顧問は独身、一人暮らしだ。浮いた噂も最近聞かねえ」

「それじゃあ、やっぱり最初から知っていた、って線は」

「仮定をそこまで広げるともう何でもありになっちまう、絞れなくなる。そこは仮定として揺るがせたら駄目だ」

 と、すると。吹奏楽部の顧問の先生は昨日の健康番組を観ていない、ということになり。

 アルコールと風邪薬の親和性、薬効の増大の話も、知らなかった、ということになり。

 詰まる所、今回の件の犯人では、なかった、という、ことにも、なってしまう。

 また。

「いや、待て……だとしても、条件は……」

 また、推理のし直し。証拠の集め直し。を、しなければならないのか。

 そんな時間は無い。しかし焦らず、先輩は思考に没入し、諦めずに論理の再構築を開始する。

 このままでは終われない。折角ここまで辿り着いたのだ、必ず解決まで持っていかなければ。文化祭一日目を楽しむことを放棄したわたしもまた、救われない。

 考えろ、考えろ。まだ何か、あるはずだ。残っているはずだ、判明していないところが、見落としている箇所が、きっとある、はず。

「えっと? つまり、犯人は別にいるってことか?」

「かもですね。少なくとも、吹奏楽部顧問ではない可能性はかなり高くなりました」

「そん、な。なら、やっぱりチア部の顧問なんじゃ」

「彼が吹奏楽部顧問を酒盛りに呼ぶ理由がないですよ、相手が知らないと言えばそれまでですし、そもそも自白になる」

「う、うーん……」

 先生と新聞部部長さんも、可能性を挙げては潰して検証していく。四人でやれば新しい視点も生まれ易いはず。

 本人の自滅、には嫌い合っている二人が同じ酒盛りに出ていることからして考えづらい。教頭、も同様で。だとすると、ここでやっぱりキャッサバが効いていた、とかの展開も有り得たり。

 でもキャッサバの毒に関してはこれ以上の後出しの要素は見出せない、どんでん返しは無しだ。若手の物理教師、は酒盛りを提案、実行できる立場にないうえ、現場にいなかったことからも、難しい。

 他に、他に誰がいる。何がある。それだけで前提がひっくり返り、犯人が浮かび上がる証拠とかトリックとか、隠されているものは。

 先輩の方は手詰まりの気配、あるとしたらわたし、なのに。

 最初から、考え直してみよう。

 まず、風邪をひいていた生活指導主任は、チア部部長から渡された風邪薬を吹奏楽部の検査の前後どちらかで飲んだ。

 そして誰かが開催した酒盛りにおいて彼は酒を飲み、アルコールと薬の相性の悪さから昏倒に陥った。

 新聞部部長さんは家庭科準備室から出てくる、酒盛りの参加者だったと思われる四名を撮った。

 ここで、家庭科準備室の中に、誰かが残っていた、という可能性はないだろうか。

「あの、出てくる写真を撮った後に鍵がかかっていることは確認したんですよね」

「ん? ああ、そうだね」

「その時、室内に誰かが残っていた、ってことはないでしょうか。酒盛りに五人目がいた、などは」

「あー、それ、は多分ない、ね。戻ってくると読んでしばらく扉の前で張ってたけど物音一つしなかった。ノックしたり声を掛けても反応なかったし」

 可能性、としては消しきれないけれど、だとしてもそれが誰かわからない以上はそれ以上の話に発展しない。

 いや、待った。

「どうして、中の様子がわからなかったのに、酒類が回収されたものと、わかったんですか?」

「最初のアングルあったでしょ、外から調理準備室見てるやつね。カーテンの具合からなんとか見えてた酒の缶っぽいのが、戻ってきたらなくなってたから。窓が閉まってるのに勝手に倒れるとかは有り得ないでしょ」

「それなら、まあ確かに……」

 調理室準備室の証拠品辺りの疑問やらを挙げてみるものの、収穫はない。

 あとは、あとは。

 ……あれ?

「すみません、酒類が回収された時間帯、はわかりますか?」

「九時過ぎ、頃だと思うけど。何かあるの書記ちゃん」

 その時間だと、一つ、気になることが、なくはない。

 写真を見た後。何かが引っかかっていたのだ、それを思い出した。もやっとしていたそれを、やっと言葉にして表せる。

「誰が、回収したんでしょうか」

「!」

 ずっと真剣な目をして考え込んでいた先輩が、目線を持ち上げた。

 八時四十五分辺りから九時四十五分付近まで。わたしと先輩と、ここにいる先生は、会議室Cにいた。それは揺るがない事実。

 しかし、調理準備室に一旦放置されていたと思われる酒類の袋をごみ捨て場に持って行ったのは、若手の物理教師、この先生だ。

 つまり、現場から袋を回収し、先生に渡した仲介人がいるはず、なのでは。

「私は、わからなかった。ごめん」

「先生は、知ってらっしゃいますか?」

 ごく小さい引っかかり程度でしかなかったものが、何故か、口に出して初めて印象を変える。この質問は、確信に迫るものであると。

 でも。

「いや。それが誰かは」

 わからないんだ。と。先生は、心底悔しそうにそう吐き出した。

 思わず、歯噛みする。もうすぐそこまできて。まだ見えない。その苛立ちが、遣りどころのないもどかしさが、わたしを蝕む。

「そんな」

 これ以上、どこに。何が残っていると。いうのか。

 しかし。目線を持ち上げただけで微動だにせずに沈黙を保っていた先輩は、いきなり大きく腕を広げ、たかと思うと。

「よ、っしゃ!」

 室内のどこかで風船が破裂でもしたかと思うほどの音を響かせ、豪快に手を打つ。

 皆、言葉を失くして先輩へ、驚愕と動揺、そして期待の眼を。向ける。

 口角をこれでもかと釣り上げ、拳を腰だめで強く握り、その双眸を輝かせた生徒会長は、勝ち誇った態度で。言い放ってみせた。

「三度目の正直だ。今度こそ、犯人確保といこうぜ」

 

 

 

 

   ○

 

 

 

 

「先生」

 オレは、その人物に声を掛ける。勿論、正当かつ最もな理由で。

 相手は、ゆっくりと振り返る。余裕を見せて、特に疑いも抱かぬまま。

 一応、呼ばれてもいるから、というのもあるが。それよりなにより、この人が「犯人であるから」だ。

「おお、来てくれたか。案外早かったね」

「そりゃもう。のっぴきならない件ですので」

 文化祭中につき、殆ど他に人影が見受けられない、けれど冷房だけはガンガンに効いている、職員室にて。

 向かい合う。

 一体一だ。書記ちゃんや先生には先に酒類の回収に、新聞部部長には誰もいない部屋の捜索に向かってもらっている。何? 合流してから行けばいいだろうって? 馬鹿野郎、こういうのは勢いと、あと勢いとかが重要なんだ。そういうところでもたもたしてたらいけない。もうすぐ文化祭も終わりだ、手早くいかなくては。

 きっとこの人は、オレが今朝の生活指導主任昏倒事件の犯人を問い詰めに来た、とは露程にも思ってはいないだろう。

 でも、オレたちはもう、わかっているんだ。

「調理準備室に諸々を残していったのは悪手でしたね。もうその時点でゴミ捨て場に持って行かせておけば、ばれることもなかったのに」

「何の……ことだい?」

 本当に何を言っているのかわからない、という表情は秀逸で。オレくらい自信を持っているやつでなければ、自分の推理を疑ってしまっていたかもしれないな。

 だがしかし。ぴくり、と、一瞬、眉間に皺が寄りかけたのを、見落としはしない。

「生活指導主任が風邪薬を飲んだことを知っていた、っていうところがネックだったんですけど。そこは知ってて当たり前、っすよね。だって一緒にいたんですもん」

「……君は、何が言いたいんだ?」

 その堂々とした振る舞いに敬意を表し、こちらもおどけてみれば、すぐにその困惑は立ち消え、威圧するような顔つきに、代わる。

 駄目でしょう、それは。自分は関係していると自白してるようなもんだ。本当に関係なくて、逆にそれが素であるならば主演男優賞獲れますよ。

 まあ、それはそれとして。言いたいことを問われたので、正直に答えることにしよう。

「貴方が犯人、ですよね?」

 ねえ? 『家庭科部顧問の生物主任』さん?

 笑顔でそう言ってやる。職員室の扉が開き、缶や瓶が擦れ合い、ぶつかり合う音がするビニール袋を持った書記ちゃんと、若手の物理教師が入ってくる。

 家庭科部顧問は、そちらに目を向け、全てを察したように瞼を閉じた。

「先輩、持ってきました」

「会長、と呼んでくれ。……さて。もうわかりますよね。それとも、改めて説明した方がよろしいですか?」

 なんだなんだ、と、職員室に残っていた二、三人の教師たちが集まってくる。

 別に、オレとしてはここで推理を披露しても良いのだが。というかむしろしたいのだが。敢えてそれは我慢しよう。謎解きは当事者だけで行うのが美しい。

「いや。いい。ありがとう。まったく、そんな大馬鹿がいたとはな」

「文化祭だからって羽目を外しすぎちゃったんでしょうねえ」

「よし、すぐ向かおう。案内してくれるか?」

「勿論です。行きましょう」

 相手の方からそういう提案がそういう形で出るとは予想外だった。問題はないけど。

 生活指導担当という立場を利用し、他の教師陣に対し、察しろという空気を出しつつ、職員室を出る。

 安全そうな場所を素早く探して来たのだろう新聞部部長の手引きで、生徒指導室に計五人で入室した。

 主任がおらず、使用する人がいないここは、他の誰も入っては来ない。

「すいませんね、いきなり」

「いや。いいよ。……それにしても。どうして、わかったんだい?」

 家庭科部顧問は諦念も露わに、落ち着いた声を放つ。

 オレの推理通りなら、いくら取り繕っても恍けても意味は無い。それを察したのか、それとも単に疲れたからなのか。

 兎に角、待望のオンステージだ。

「決め手になったのは、酒類の袋……これですね。これの受け渡しです」

 いつの間にかどちらも先生が持っていた袋を掌で示し、解説を始める。こちらの三人にも詳しい説明はしていないので、ちゃんと行わなくては。

「酒盛りの後。酒の瓶や缶は調理準備室に放置されていました。が、そこの新聞部部長の調べによると、短時間の間に消えていた。それはつまり、回収要員がいたということに他なりません」

 参加者の四人は、八時四十分頃に、現場をそのまま後にした。回収が行われたのは、九時半前後の数分間。

 しかし、ゴミ捨て場への運搬役に抜擢された若手の物理教師はオレたちと一緒に会議室にいたので、時間的に無理だ。

 となれば、他に仲介する人がいたことになる。酒盛りを知っていて、それを隠匿することに賛成する人物が。

 ここで一つ、思い出してほしいことがある。

「家庭科の先生は今日風邪で休み。つまり文化祭中、家庭科系の教室の鍵の管理は、家庭科部顧問である貴方に一任されていた」

「そうか。その時間帯に回収できるのはぼくだけだった、ということか」

「他の人を使ったとしても、調理準備室の鍵を貸し出すのは貴方なので、どの道加担は明白でしたね」

 もしそうであったら訊き出しや証言獲得に難航したかもしれないけれども。まあ今回は運が良かったということだろう。

 酒類を回収した家庭科部顧問は、教頭を通じて若手の物理教師にそれらを運ばせた。これは運が悪く、上手くいかなかったと。

「ただこれだけじゃあ、今回の『犯人』とまでは断定できませんでした。条件が色々あったんで」

「条件、か」

「そうです。まず、生活指導主任が風邪をひいており、かつ風邪薬を飲んだことを知っている、ということ。次に、風邪薬に含まれる化学物質とアルコールの相性が頗る悪いことを知っていること。そして意図的に酒盛りを開けるだけの力を持っていること。の、三つです」

 静かに見守っている書記ちゃんが頷く。これだけの条件を満たさなければ、今回の犯人には成れない。その特定の難しさを共に味わったのだ、疑問も尚のことである。

 けれど、これらはあまりにも簡単に説明がつく。

「一つ目ですが。これでオレらは随分悩んでたんですけどね。なんてことはない、そういえば貴方は、生活指導主任と一緒に部活の事前指導をしていました。風邪薬を飲むところを目撃しているでしょうね、そりゃ」

 見落としていた。

 それだけならそこの物理教師にも当てはまるものの、同様に酒盛りに関与していないものと捉えてしまっていたため、無意識に候補から外してしまっていたのだ。

「二つ目。これは生物教師である貴方なら知っていて何もおかしくはないはず。少なくとも、吹奏楽部顧問の音楽教師よりかは、ずっと」

 化学、もしくは生物の教員であれば不思議はない。

 昨日の健康番組を教師陣が視聴することができなかった時点で、そこまでは絞り込められていた。

「最後、三つ目。これに関してはそんなに説得力のあることは言えませんが。意図的に開くことも可能だったのでは」

 これだけは、正直こちらからは特定が非常に難しい。ただ、出来そう、出来なさそう、という想像の範疇を超えないのが痛いところだ。

 しかし、家庭科部顧問は嬉しそうに微笑んでみせる。

「そうか、そうか。なるほどね。いいよ、すごくいい」

「……どうも」

「ぼくも結構ミステリは読むんだけどね。こうして問い詰められるというのは、存外気持ちのいいものなんだねえ。こう、自分の意図や考えが人に理解されている、って感じで」

 悪事を、企みを暴かれるのが楽しい、とは。

 実際そんな場面に出くわすのも、問い詰めるのも初めて、況してや犯人側に回ったことも無いので、その気持ちは残念ながら理解出来ない。

 共感を示せないのは他三人も同様のようで、特に書記ちゃんなんかは、軽蔑するような冷たい目を向けていた。何かの間違いでオレに向けられていればそういう方向性に目覚めてしまいそうなほど。

「あ、いや。決して嬉しいとかじゃないよ。でもただ、一応、君の推理の補足というか、ネタバラシがしたいんだ。いいかな」

「構いませんよ」

「では遠慮なく。まず、風邪薬をチアリーディング部の部長に渡したのはうちの――家庭科部の部長だ。ぼくがそうさせた。そして同じ文化部顧問として、生活指導主任に良い感情を抱いていない仲間として、吹奏楽部顧問の彼に酒盛りを開くことを提案したんだ。彼は悪くないよ。準備から何まで、ぼくがやった。唆したんだ。まあそう言っても、どうにもならないかもしれないけどね。チアリーディング部の顧問に参加してもおうと言ったのもぼくだ。彼らは仲が悪かったからね。スケープゴートに使えると思ったんだ」

 今度は、あまり楽しくなさそうに。しかし饒舌に、家庭科部顧問は語る。

 勿論、生活指導主任は文化部に対し理不尽な仕打ちをしていたという。それでも、このやり方は看過できないし、そもそも家庭科部は合宿中の食中毒を隠蔽したという過去がある、その件に関しては、それを指摘した生活指導主任の方が正しいと言わざるを得ない。

 キャッサバの件のとき、それらの事情は把握した。思えば、あの時もそれっぽい言動はちょこちょこあったように感じる。

「ぼくだって悪いことをした。それは自覚している。でもそれで、家庭科部の子が、教え子が脅されるのは違うだろう、と。こちらも弱みを握ってやろうとして、今回のことを計画した」

「成程。……で、これからどうするつもりですか?」

「当然、全部話すよ。これ以上醜い足掻きはしないさ」

 これで、全て解決だ。生活指導主任を昏倒するようにした家庭科部顧問だけでなく、酒盛りを行った生活指導主任、教頭、チア部顧問、吹奏楽部顧問も処分を下されるだろう。場合に因っては学校に報道陣が詰めかけるかもしれない。

 酒が何より好きだという相手に、酒を飲むことで痛い目を見るという経験をさせ、楽しみを失わせようとしたのだろう犯行は、全容を明らかにした。

 これからの段階で色々な事が起こるだろうが、恐らくオレたちにはあまり関わりが無いことともなるだろう。事情聴取くらいは受けるかも知れないが、他はそうでなくては困る。

 だってオレたちは、明日の文化祭の為に、今日、この事件を終わらせたのだから。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 文化祭、二日目は至って平和だった。

 朝に誰かが倒れることも無い。それで会議室に閉じ込められることも。

 酒盛りがどこかで開かれることも無い。それで新聞部部長がわざわざ写真を現像することも。

 一先ず昨日あった事件に関しての告白で、二日目が急遽中止になることもなかった。釈然としないものの、今日を守るためには仕方ないという思いもある。まあその所為で余計な考えをしなければならないので、それに関して負の作用が働いていることは間違いない。うん。

 しかし、摘発はあったようで、酒盛りの参加者と、家庭科部顧問は学校に来ていないようだ。もうわたしたちが介入できることはないだろうけれど、しっかりとした決着を迎えてほしいとは思う。

 もう、昨日の忙しさ、犯人を見付けるという責任感、使命感、時間制限の焦燥感もない。今日も快晴、雲一つない青空が気持ち良い。

 そして、今現在、先輩もいない。

 

「すみません、また会長とはぐれました」

 

 

 

 

 

 

 

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殺人なんて、あるわけないじゃないですか。中編

18,869字

 

 

 乗り気でないうえに時折スマートフォンに目を落とす先輩と共に、視聴覚室の軽音楽部、美術室の美術部、LL教室の華道部、書道部、茶道室の茶道部武道場の文芸部、アニメーション研究会、乗り物愛好会、図書部、天文部や生物部に物理部等々、特別棟に居を構える団体の全てを回ったものの、有力な情報はどこにもなかった。

 先輩の記憶を正しいとするなら、生活指導主任の今朝の仕事は、部活の事前検査と食品出店クラスの当日試食だったはず。よって残りの後者の方へ聞き込みに行きたいところ、だけれど。

 十時の開場から既に一時間半近くが経過している。文化祭のメインである教室棟は絶賛大盛況中だろうし、突入しにくい。それに試食担当の現場責任者がいるかどうかも分からないし、そのうえ有益な問答が出来るかどうかと考えると。とても効率的とは言い難いのだ。

 だからといって、ここで安易に捜査を打ち切ることもしたくない。なんだかんだ頑張って回ったし。

 どこに行くべきか。どんな情報を求めるべきか。誰を探すべきか。何もかもわからない。

 教室棟に伸びている渡り廊下の特別棟側で立ちつくし、わたしたちはこれからの方針を定められずにいた。

「こういう探索パートって、現実だとここまで何もなくて厳しいものなんだな」

「そう、ですね。進展がまったくないってつらいです」

 ここからでも、賑わっている教室棟の様子が十分に窺える。一般入場者の入りも上々だ。

 その熱気がこちら側にも伝播しているのか、心なしか気温が上がってきているようにも感じられる。今日はそこまで暑くならないらしいし、ちょうどいいかもしれない。

「あー、なんかいい匂いしてきたし腹減ってきたな。書記ちゃん、話題になってるアレ、3ー2のカレーラーメン買っといてって副会長に伝えて。出来れば2ー5のサツマイモのお好み焼きも」

「自分で買いに行ってください」

「えー」

 装備しているトランシーバーはそんな風に使うためのものではない、はず。

 さっきから昼食の注文が副会長さんに次々と飛んで行っているのが聞こえるけれど、きっと空耳だろう。

 なお二人一組で通信用のトランシーバーは各組一つずつ。なので普通は二年の先輩が持つ、のだが。先輩は去年落っことして壊したとかで禁止令が出ているためわたしが所持している。

「帰りにでもなんか買ってくかー。てか、なんか人増えてきてね?」

「そういえば、そろそろそこの調理室で家庭科部の料理教室が始まるはずです」

「なるほど、道理で」

 先ほどまではちらほら程度だった雑踏が群れを成し、特別棟の静寂を踏み荒らしていく。

 主に親子連れで構成された人の波は、なにやら良い匂いに釣られて調理室に収束する。その放たれている香りだけで、一般クラスのものとはレベルが違う、ということがはっきりとわかってしまう。

「当日試食の会場は調理室だったよな。毒やらで殺ったんだったら何か残ってるかもな、これは」

「食べたいならそう言ってもいいんですよ」

 思わず苦笑いするが、先輩の言い分にも理はある。

 被害者の生活指導主任さんには目立った外傷はなく、服装に乱れも見受けられなかったことより、鈍器などで殴打された、というような可能性は低く、どちらかというと犯行は服毒系が現実的だと考えられるだろう。そして盛ることが可能だったのはその試食検査くらいのもの。まあ、そこまで無理はないというか、むしろ自然にも思える仮定だ。

 試食検査は七時半前後から八時丁度くらいまでの約三十分間で、それまでに各団体は準備しておく、らしい。時間帯的にもそのあたりが最も有り得そうだ。

「でも、犯人があからさまな証拠を残したりするものですかね?」

「あんま期待はできねえな。でも管理してた家庭科部から使える証言をもらえるかもしれんぞ」

 まあ確かに、お腹も空いてるしちょうどいいかな、と。早足で調理室へ吸い込まれてゆく先輩を追おうとしたその矢先。

「すみません、役員さん?」

「あ、はい。なんでしょう」

 背後から年配の女性らしき声がかかり、そちらに振り向かざるを得なくなる。そういえばこれでも執務中だった。

 文化祭のパンフレットを片手に、小学校低学年ほどの女の子を連れたそのおばあちゃんは、少し焦っているように問うてくる。

「体育館に行きたいのですが、どうすれば行けますかね?」

「おねーちゃんのげきみにいくの!」

 劇か。体育館で行われる演目とそのタイムスケジュールを、頭の中で呼び起こす。

「2Aの演劇ですね」

「そうなんです。もう始まっちゃいますか?」

「いえ、まだ間に合いますよ。案内します」

 出来るだけにこやかに笑み、二人を連れて体育館へ行くことにする。ここからだと混みに混んでいる教室棟を通ることになるので、わたしが先導して道を開けてもらわなければ開演までに辿り着けないかもしれないからだ。

 しかしもう先輩は調理室に入ってしまっているため、ここからは別行動を余儀なくされる。一応トランシーバーで情報伝達はしておこう。

「仕事で離れるので、いまからしばらく会長と連絡とれなくなります」

『はーい』『了解』『あいよー。ま、支障は出ないだろ』

 返ってくる声には、一切の焦りも戸惑いも不安も混じっていない。信頼されているのかいないのか、よくわからない。

 大変残念ながらここから一旦、先輩とは別行動だ。とても残念ながら。

 

 

   ○

 

 

 家庭科部は、思っていたよりだいぶガチだった。

 名前はよくわからないが、洒落てて美味そうなことだけはよくわかる料理が次々に出来上がってゆく。料理教室、なんて銘を打ってはあるものの、その実態はほとんど家庭科部の実演調理発表会 のようなものだった。まあ楽で助かるけど。

 去年まではちまちまとクッキーとかを焼いて販売するだけだったのだが、今年は有望な一年が入ってきたからとか、交渉がうまくいったからとかで、一気に豪華になっている。

 入室してしばらくしてから、さっきまで一緒にいたはずの書記ちゃんが、入場制限に引っかかったのか何か用事ができたのかはわからないが、いつの間にかいなくなっていたことに気付いた。なんにせよこの会が終わる頃、十二時二十分までは各自に分かれて動くことになるだろう。

 まあ、そっちの方がオレには都合が良い。

 なかなか自由にさせてくれなくて困っていたところだったのだ。

 実を言うと、オレからしてみれば半ば捜査は完了しているようなもので。聞き込みには本心から飽きていたし、そこは申し訳ないとは思う。

 というか、あれだけ熱心になってくれたことがかなり予想外だったし、そのせいで中断し辛かった。

 でもやっぱり、推理の披露、及びネタバレは場を整えてからしっかりやった方が良いと思うし、まだ肝心の詰めの部分ができてないし。決定的な証拠もない。

 昼休憩までに、なんとかできれば、いいんだけど。

 

 

   ◇

 

 

「どうもありがとうございました」

「ありがとーございました!」

「いえいえ。じゃあねー」

 おばあちゃんと女の子、それぞれに挨拶を返し、その場を後にする。

 もう調理室は閉め切られているだろうし、わざわざ戻って入れてもらってまで先輩と合流するまでするべきかと考えると、時間的にもこのまま動くのが得策。

 体育館前の階段を下りながら、これからどうするかを考えてみる。

 先ほども考えたが、どうにも「毒殺」や「薬殺」の線が濃厚であるように思われる。それどころか、その方が自然だとすら。飽くまでこれが「殺人事件」ならば、の話だけれど。

 問題は、未だに何の情報も得られていないこと。犯人、凶器、動機、犯行時刻に現場。

 これからどういう行動をしていくか。

 毒を使ったと仮定すると、文化祭の準備中に犯人が生活指導主任に盛れるタイミングは、試食会か、水分補給をするときくらいか。風邪薬の件は、本人が言っているのでそれとは結び付けにくい。そっちは先輩に任せるとして。

 衆人環視の中でどう混入させ、料理に使い、ピンポイントでたった一人だけに含ませられるのか。そのトリックはわからないし、そもそも今考える必要もない。

 調理室の方は先輩がやってくれるはず。でも、犯人がそんな見つかりやすいところにわざわざ証拠を捨て置くとは思えない。では、そうでないとしたら。調理時に出たごみなどは、持ち帰ろうとするのはリスクが高いしわたしでは追えないから仕方がないとして、家庭科部に回収される場合を考えると。

 随分限定的だけど、いまはやれることは少ないし、先輩のように一点張りをするのがベストだと信じる。

 思考を巡らせつつ、ゆっくりと歩を進めて。

「ここ、は、どうなのかな」

 来た場所は、校内の隅のごみ置き場。校内で出たあらゆるごみはここに集まることになっている。

 文化祭開催中の外出は原則禁止されている。しかも正門以外は全て閉鎖され警備員が付くし、入退場者の人数を合わせるための仕組みがあるため唯一解放されている正門からも出られないから、外にまで廃棄しに行った説は消せるだろう。

 さらに、各教室の備え付けの小さなごみ箱にはごみが驚くべき早さで溜まっていくため、十二時、二時、五時の収集車に間に合うように出すことが強く勧められている。臨時で設置されているごみ箱の中身も同様に美化委員会が担当して捨てに来る。

 よって、犯行に使われたものの何らかが捨てられているとしたなら。まずここにあるはずなのだ。

 と、思いついて、足を運んだのはいいものの。

「あ、っれ……?」

 本来ならば。ごみが詰まった袋が、山のように積んであったのだろう。

 ところが。

 どこからどう見ても、そこには何もない。空っぽだった。

 生ごみも、紙ごみも、ペットボトルもビンもカンも資源ごみも、大量の段ボールの残骸も。何一つ、残されていない。十二時まではまだ十五分以上あるというのに、ごみは忽然と消え失せていた。

 誰かが意図的に持ち去ったのか。いや量的に有り得ない。証拠隠滅の為に他のごみまで持っていかせたとか。でもそんな権力を一生徒が持つはずがない。わたしと同じように、証拠を探すために一旦出ている全部を別の所に集めた、とか。それは非効率に加えて非現実的すぎだ。

 じゃあ、誰が何のために。それとも、偶然収集車が早く来ただけなのか。

「どうかしたかい? ゴミ捨て?」

 見回りでもしていたのか、作業着姿の初老の用務員さんが声を掛けてくれる。

「いえ、そうではないんですけど、その、どうしてごみが無いのか知ってますか?」

「そこにあったゴミかい。それならさっき収集車が来てぜーんぶ持っていっちまったよ。何か捨てちゃいけないものでも入ってたとか? それなら、電話すればなんとか間に合うとは思うけど」

 一瞬考えたけれど、冷静になってみると。厳しい時間制限つきで、そんな大量のごみの中からアテもなく、決定的な何かを探し出す、なんて。

 それは不可能と同義のように思える。到底成せない無理難題に近い。

「大丈夫です。でも、なんでもう持っていってもらっちゃったんですか? まだ時間じゃないですよね?」

「やー、それがねえ。私も聞いてなくてねえ」

 用務員さんは腕を組み、困ったとばかりに首を傾げる。近くの体育館から薄ら届いてくる歓声と笑い声が、やけに空虚なものに感じられる。

「なんだか教頭さんが頼んだらしいんだけどねえ。私にゃさっぱりだよ」

「そう、なんですか。ありがとうございます」

 小さく手を振って、用務員さんは体育館の脇を抜け、グラウンドの方へ歩いていった。途中で振り返って、「ああ、でもゴミはまたそこに出しといていいからねえ」と言い残して。

 ごみを、教頭が、業者に頼んで処分させた。回収して凶器などを探す、とかなら、辛うじてまだわからなくもないが、どうしてなのだろう。教頭先生といえば、今朝わたしたちに解散を言い渡したり、被害者の生活指導主任と一緒に仕事をしていた人、という覚えがあった。

 二十分にも満たない時間を、わざわざ短縮させた意味はなんだ。きっと何か意図があるに違いない。それが今朝の件に関係あるかどうか断定できないけれど、これは何かに引っかかる。

 目的は、素直に考えて、ごみを持っていかせること。捻くれて考えると、ごみの中に重要なものが入っていた、と思わせること。でも後者はわたしのような対象があって初めて成り立つ。他にここに来た人がいるかいないかは不明だけど、恐らくその線はないとみていい。そうだったとしても、その可能性に気付かせている時点で失敗しているからだ。

 では、早く持って行ってもらわなければならないものがあったとして。それはなんだ。

 考えながらごみ置き場を後にしようとして、近付いてくる足音を捉え、思わず物陰に隠れてしまう。後ろめたいことはないけど、つい。

 職員棟の方から歩いてきたのは、朝、共に会議室Cで待たされていた、若手の物理教師、だった。両手に透明度の低いビニール袋を提げており、片方からはガラスがこすれ合う音が、もう片方からは空の缶がぶつかり合う音が聞こえてくる。

 なんとなく想像できる、その中身、は。

「……お酒?」

「うぉわっ!?」

 つい漏らした小さな声に飛び上がり、その音源がわたしであることを認めて、先生は胸を撫で下ろした。

 なんだろう、とても怪しい。

「書記さんじゃないか。驚かせないでくれよ」

「すみません。まさかそんなに驚かれるとは思っていなかったので」

 これは本当だ。明らかに過剰な反応は、やましいことがあるからこそ、だろう。

 無理矢理に絞り出しているような乾いた笑いを顔に張り付けたまま、先生はごみ捨て場の方に振り返り、固まる。

「ご、ゴミ置き場にゴミがまったくないんだが?」

「さっき収集車が来てぜーんぶ持っていっちまった、らしいですよ」

「そんな、いや、そうか。ありがとう。じゃ、僕はこれで……」

「先生」

 こちらに背を向け、さっさと立ち去ろうとしていた先生は、しばし躊躇い、振り返った。

 隠し通せることでもなければ、誤魔化せることでもない。

「なに、かな?」

「その袋の中身、お酒、ですよね」

「あ、ああ、これは……」

 ちょっと気を付ければ、仄かにアルコールの臭いが香ってくる。わたしの疑惑がほとんど確信に変わる。

 片手を持ち上げ、下ろして、言葉に詰まって二の句が継げなくなる先生は、やがて観念したのか、相手が生徒のわたしだからか、両手を軽く振った。

「……その通り、これは酒瓶と酒の空き缶です」

 瓶、缶がそれぞれぶつかり合い、不協和音を奏でる。

 この先生の慌て様。何故か、いまわたしたちが追っている今朝の件に、関係がある、ような気がした。

「頼む書記ちゃん! 見逃してくれ!」

「ええ、もちろん」

「言い訳になってしまう、がっ、え?」

 生徒からの評判も上々、誠実であることをよく聞く、という主観的判断も含めて。顔に赤みが差してはいないし、先生本人からは酒の臭いも漂ってこない。もちろん先生が酒に強かったり、口臭用タブレットか何かを使っている可能性を考慮すればそれだけで判断するのは早計だと言わざるを得ない、けれど。

 なにか、腑に落ちる仮説を、考え付いたから。

「誰にも言いません。だって先生はそれ、飲んでないんでしょう?」

「え、そう、だけど。どうして」

「いまさっきごみ収集車にそこのごみを持っていかせたのが、教頭先生だからです」

「ああ、そっか、なるほど」

 その反応からして。

 恐らく、教頭先生を含むか含まないかの複数人か、はたまた本人一人だけかが酒盛りをした、のだろう。それが当日か前日かはわからないが、こうして他の教員に捨てに行かせ、証拠の隠滅を図った。多分時間を指定し、丁度収集車が回収に来るように。

 咄嗟に構築した、かなり想像によるところが大きい杜撰な仮定だけれども。案外、外れてもいないのではないだろうか。それに。

 それはどうやら、失敗に終わってしまったらしい。

「と、とにかくありがとうな。また出しに来ることにするよ」

「はい。お疲れ様です」

 周囲を警戒しつつ職員棟に駆けてゆく先生を見送ってから、特別棟に戻るべく歩き出す。

 教頭先生、酒盛りに参加していた教員達、捨てに来させられた先生、生活指導主任の被害者。そういえば、先ほどの若手の先生も生活指導担当だった気がする、けれど、それだけでもある。

 きっと、直属の上司にあたる主任が倒れて、本来の仕事に加えて様々なことを押し付けられているのだろうなと考えると、少し可哀想ですらあった。

 あれ、そうなると。酒盛りか何かの後処理をもさせられているのは、偶然、なのか? せめて命じた人くらいは聞いておいた方がよかったかもしれない。

 とりあえず、戻って先輩と合流しなければ。まさかとは思うけれど、何かを見つけたりしている可能性も無きにしも。

 

 

 

 

   ○

 

 

「こ、これは……! なんだ?」

 家庭科部の成果発表会という名の試食会で大量の料理をつまんだ後は、調理室の掃除を手伝うという名目のもと、堂々と捜査。オレの読みが正しければ、ここに毒の類が残されていてもおかしくない。というか、残っていてくれないとちょっと困る。

 調味料の棚に変なものが混入していないか、冷蔵庫の中の食材は直近に使われるものだけでないか、念のため食器や包丁など器具の個数は足りているか。等々、細かくチェックしていった。

 家庭科部はその活動の規模もなかなかのものだが、それ故、かどうかはわからないが生活指導主任からの当たりが強く、顧問も真っ向から対立しているとの話をよく聞く。もしかすると、事件に関わりのある物、人が見付かる可能性はある。

 だが、しかし。「そういうのは化学室にしかないと思いますよ」「何も入ってませんよ、空っぽです」「全部ありましたよ」と。その悉くで敗北を喫する結果に終わった。会の途中で潜り込んだ調理準備室にも、酒の瓶一つ残ってやいない、収穫はゼロ。家庭科部がここを使う時にごみは捨てられているが、その中にも特段おかしなものはなかったという。

 このままでは終われない、会長としての威厳が保てない。そうなると、あとは廃棄物くらいか。家庭科部に代わる前にごみは一掃されて新しいごみ袋に代えられているが、重要な何かが無いとは限らない、はず。せめて今朝の事件に繋がるような何かでも発見しておきたい時間帯だし。

 そして、その底の方で見付けたものは。

「ああ、それはキャッサバですね」

「キャッサバ?」

 すっぱり綺麗な断面をして割れている、さつまいもっぽい色形のそれは、どうやらそんな名前の作物らしい。芋の仲間かな。

 それ自体が特徴的なわけではない、目についたのはそのサイズ故だ。黒板消し並みの塊であれば、当然目立つ。

 後片付けを終え、手持無沙汰になっていたのだろう家庭科部の面々が集まってきてオレの手元を覗き込む。反応からして、あまりメジャーなものではないのだろう。これを一目見て判別出来た部員は成績優秀者で知られていたはずなので、そこは信頼できそうだ。

「南米原産の根菜だね。大きなサツマイモに見えるかもしれない」

 家庭科部部長が補足してくれる。確かに、似ていないこともない。でも、間違えるほどではない。

 キャッサバ、どこかで見聞きしたことのある名前だ。どこで見たのかはわからないが、少なくとも日常生活ではまずお目にかかることはないということだけはなんとなくわかる。

「えっと、多分、地理の資料集。後ろの方にこれの写真とかが載っていたはずです」

「あー、そう言われてみればそんな感じがするわ」

「でも、なんでここに捨てられてるんだろ。うちこんなの使ってなかったですよね?」

「だよね、ていうかこれ生ごみ用のごみ箱じゃないし」

「朝のごみはわたしたちがここ使う前に全部捨てられてるはずだもんね」

「うん、残ってるのはおかしい」

 家庭科部員たちがにわかに色めき立つ。彼女らにとっても想定外のもの、つまり、本来ここにあるはずがないものが捨てられていたのだ、動揺、といよりは未知の刺激への期待の方が強いように感じるが。

 盛り上がってきた彼女らにキャッサバを譲り、キャッキャしている輪から離れていた部長に寄る。あれの中心にいるのはつらい。

「部長さんはどう思います?」

「謎のキャッサバね……私たちは今日使ってないし、これから使う予定もない。というか実物を見るのも初めてだ」

 万が一さつまいも類と間違えた可能性があったとしても、必要な素材を必要なだけ、確認しながら使ったから、あんな風に丸々残るのは有り得ない、そのまま捨てるなんてもっての外だ、と彼女は付け加えた。

 だとすると。あれは家庭科部ではない何者かによって捨てられていた、という線が濃厚になる。今日に備えてごみ袋も交換されているはずだ、となると犯行時刻は今朝から昼前まで。

 もちろんこの件が今朝のものと何も関係ないということも十分有り得る、というか関わっている可能性の方が低いだろう。だが、こういうときにおかしな物品が見付かるのは、ミステリの中ではいわば「お約束」のようなもの。後に重要な手掛かりになったりすることも少なくない。それが現実にも適用されるのかどうかは、まあ、定かではないけど。

 こういうのは、ノリと雰囲気が勢いが良ければ大体何とかなるものなのだ。多分。

「午前には食品出店クラスの事前試食会があったから、その残りなのかも、しれないけど」

「となると、えーと?」

 キャッサバがいつ、どのタイミングで誰に捨てられたのかも気にはなるが、それはそれとして、後で。

 焼きそば、フランクフルト、アイス、ライスバーガー、カレーラーメン、チョコバナナ、ホットケーキ、うどん、たこ焼き、お好み焼き、じゃがバター、タピオカドリンク。各学年四店舗ずつの食品出店のラインナップを思い返してみても、そんな日本ではマイナーな食材を使用しているものはない、と思うのだが。

「調理器具や食器の扱いも杜撰でしたし、やり方が雑なのはなんとかしていただきたいですねー」

「でも、こんな風に食材を余らせるって、どういうことなんでしょう」

 少々きゃいきゃいして満足したのかいつの間にか散っていた家庭科部の部員のうち二、三人が、部長の元に戻ってくる。

 そう、引っかかるのは出所だけでなく、その理由もだ。

 普通は使い切らなかった分は持ち帰り、使い切るのではないのか。これは高校の文化祭なのだ、予算も限られている、こんな粗末なことをするだけの余裕は一体どこから来ているのだろうか。

「……ああ、そっか」

「ん?」

 キャッサバを使っていることを、秘匿するためか。だとするとどの食品にも、キャッサバは本来の食材として入れられていない。

 何故ここに持ち込めたのか。使えたのか。何故ここで捨てる必要があったのか。ごみ箱の一番下に、隠すように置く必要があったのか。その辺りを考えてみると、筋が通る仮説が立てられる。

 思わぬ収穫が、得られたかもしれない。まだ真偽のほどは、確かめなければならないが。

「そのキャッサバ、貰ってってもいいかな?」

「えっ……これを、何処へ?」

 成績優秀の部員が今まさに捨てようとしていたその『さつまいもみたいな物体』を指差す。

 怪訝な目をされるけれど、まあわからなくもない。寧ろよくわかる。ごみ同然のものを一体何処へ持って行くというのだろう、と誰でも思う。間違いなく。

「それは秘密だけど、持ってくってよりは、持っておく、的な。アイテム扱いだよ。部長さんも、構わないですよね?」

「いい、けれど。ちゃんと処分はしてね?」

「勿論。そんじゃ……」

「…………はい」

 直前まで渡すことを躊躇していた部員から、キャッサバを受け取る。何か違和感を感じるが、引っかかることもなく流れていった。

 兎に角。これを使って容疑者を探し出してみるとするか。

「ありがとうございましたー! では!」

「一応ごみ箱の底に入ってたんでしょう、手もそれも洗って行った方がいいんじゃない?」

「それもそっすね」

 部員たちと一緒に手とキャッサバを洗ってから出た。

 

 

   ◇

 

 

 先輩がいない。

 ごみ捨て場から戻ってきたときにちらりと調理室を覗いてみたものの、姿が無かったため、手洗いかもう出たものと思い、探し回ったけれど。

 再び調理室で、家庭科部員に話を聞いてみれば、先輩はずっと調理室にいたそうだし、わたしが来る直前に出て行ってしまったとか。とことんタイミングが悪い。

 それも、キャッサバを持って。何故キャッサバ。

 調理室を後にし、次に行くところを決めあぐね、取り敢えず一般棟の方へ歩き出す。先輩はどこにでもいそうだしいなさそうでもある。

 先輩はトランシーバーを持っていない。やはり別れたのは悪手だったか。当然のように先輩はスマートフォンを使っていたけれど、本来は文化祭中も携帯電話は使用禁止なので、わたしが連絡手段を失った今、先輩と合流するのは困難だろう。

「すみません、会長とはぐれました。何処にいるか把握している人いますか?」

『またあいつどっか行ったのか』『ごめん、わからない。見付けたら連絡するね』『書記ちゃんは一人で大丈夫?』

「よろしくお願いします。見回りだけですし、わたしは平気です」

『うちと書記ちゃんのペアはあと三十分もないうちに昼休憩だ、そん時には戻って来るだろ』

 生徒会各員と交信しながら、見回りや案内の仕事もこなしつつ、校内を歩き回る。

 この高校の文化祭では、生徒会役員は一般生徒と参加形態を異にしている。所属クラスや部活動の活動には注力せず、文化祭実行委員会と協力して、文化祭自体の成功を支えるのだ。

 食品を買うことは普通に可能、しかしアトラクション型のクラスを楽しむことは出来ない。不可能ではないだろうけれど、何となく行き難い。

 単純に参加者側に立てないのは寂しくはある、でもこうして生徒会役員専用のポロシャツを着て、運営側として関わっている今の状態も、悪くない。どころかこれはこれで結構楽しいし面白い。やり甲斐だってある。

 だから、この文化祭はちゃんと終わってほしい。

 きちんとした形で、閉幕を迎えてほしい。

 そう思えば思うほど、今朝の生活指導主任の件が浮かび上がり、影を落としてくる。

 大した事態ではなかった、という結末が望むところだ。なんともなければ、それが一番良い。

 でも、先輩の言う通りこれが深刻な問題だったら。今日中に解決させなければ、明日も、微妙な憂いを抱いたまま過ごすことになってしまう。わたしと、先輩だけが。楽しめない。

 まったく、先輩も余計なことを持ち込んでくれたものだ。知らなければ、気にしなければ、余計なことに気を配らずにいられたのに。

 だから、せめて。しっかり、素早く。終わらせよう。

 先輩との合流は諦めて、職員棟、文化祭実行委員会本部、会議室Aへと向かう。確かめるのは、教師陣のスケジュール、仕事割り当てと、その現場を記した予定表だ。

 

 

   ◯

 

 

 舞台は整った、多分。発覚編、探索編を経たのだ、後は解決編を残すのみ。

 もう一つの方は証拠を得られなかったが、正直なところ、後から出てきた説だけで十分、というかこちらが本命だろう。

 キャッサバを片手に、廊下を闊歩する。一人ではない、二年五組の教室責任者の男子と、文化祭実行委員の女子を引き連れて。

 教室責任者とは、出し物に何かあったときに代表として対応する、という名目が与えられている役職の一つである、が。大概は教師陣でないと処理出来ないだろうし、実質お飾り、の、はずだった。

 彼らには他にも業務が言い渡されている。材料の発注、確認、完成品の紹介、そして、文化祭一日目朝の試食会での調理。

 そう、もう読者の君たちにはお分かりだろうが、ずばり彼が今朝の生活指導主任の一件の犯人だ。

「……なんですかその身振り手振り」

「おお書記ちゃん。どうだ、ちゃんと先生やらは連れてきてくれたか」

「スルーですか……まあいいですけど。ちゃんと来て頂きましたよ」

 調理室の手前の廊下、曲がり角でちょうど書記ちゃんと出会う。その背後には家庭科部顧問の生物の教師と、家庭科部部長、あと成績優秀な家庭科部部員。

 うん、頼んだ通りだ。部長も連れてくる必要まではなかったかもしれないが、参考人及び証拠叙述者として役に立ってもらえるはず。

 昼休憩で生徒会室に戻った際、オレは書記ちゃんに頼み事をした。

 内容は簡潔、この三人を調理室に呼んでくること。しかし、特に理由もなにも伝えていなかったのに、しっかり完遂するあたり、騙されやすかったりするのではないかとちょっと心配になる。後で諭しとこ。

 顧問は、部の責任者としてと、家庭科室の開閉の為に。家庭科の教師が風邪で欠席なので、この文化祭中の家庭科系教室の管理はこの人に一任されている。部長は保険に。その部員は……いずれわかる。

「あっ……」

「? どうかしましたか?」

 曲がり角を過ぎ、オレ達と書記ちゃん一行が合流し計七人の大所帯となる。そして、教室責任者の男子と家庭科部部員の女子が目を合わせ、気まずそうに俯く。

 その動作自体は予め観察していたオレしか気付けない様なものだったが、部員の方が小さく漏らした動揺は、書記ちゃんも聞き取ったようだ。

「い、いえ、なんでもない、です……」

 これはまあ、ビンゴか。

 確信を抱きつつ、調理室へと急ぐ。皆が時間に余裕があるわけでもないし、そもそもこの人数が固まって歩いていれば相当に目立つ。早く入ってしまわなければ。

「先生、お願いします」

「はぁ……手短にしてくださいね」

 家庭科部顧問の生物教師はこうして調理室を開けて、教室使用の監督者となってもらうために呼んだのだ。オレはともかく書記ちゃんは教師陣からの信頼も厚い、やはり委託して正解だった。こんな一見用途もわからない突然の申請に応えてくれる人はそう多くない。

 教室責任者はオレがキャッサバを見せた時から、家庭科部部員は合流してから、なんだか顔色が優れない様子。

 調理室は、電気を点けなくとも日差しが差し込んで十分に明るかった。

「さて、もう既に察している人もいるかと思いますが。一応説明をば」

 家庭科部顧問、文化祭実行委員は訝しげに。家庭科部部員、教室責任者は苦々しく。書記ちゃん、家庭科部部長は何かに思案を巡らせるように。それぞれ多様な反応をしてくれる。

 若干の緊張感、疑念、不安がそこらに張り詰める。騒がしい文化祭が遠ざかってゆく。

 解決編の雰囲気はやはり、こうでなくては。

「手っ取り早く結論から伝えちゃいますと。今調理室に捨てられていたこのイモ、キャッサバを使って、今朝。生活指導主任を、えー、害しようとした……端的に言えば“殺害しようとした”人がいる、と。そう考えています」

 殺害、という非現実的な一言によって一気に空気がひりつく、なんてことはなく。少し拍子抜けする。

 そりゃそうだ、この平和な日本で暮らしていて、そんな単語に敏感に反応する方がおかしいのだ。

 おかしいよな。そこで目線を逸らした奴。

「あの生活指導主任を? そういえば今日見かけない気が」

「そうなんですよ。実は早朝、準備段階に、生活指導主任がいきなりぶっ倒れましてですね。あ、これは広めないようにお願いします。他言無用で」

「え、あ、はい」

 倒れた話はもう広がっている、止めようとしても無駄だ。でも一応、釘は刺しておくに越したことはない。

 書記ちゃんは如何にも大丈夫か? とでも言いたげな視線を寄越してくる。まあ、任せとけ。

「皆様ご存知……ではないかも知れませんが。このキャッサバという芋には、シアン化合物――青酸、が含まれています。地理の先生に確認とりました」

 日本においてはあまり馴染みがない食材ではある、が、これを原料にしたタピオカなら、食べたことがある人も多いのではないだろうか。

 キャッサバは主にアフリカやブラジル、東南アジア辺りで栽培されている作物であり、アルコール発酵によるバイオエタノール製造にも使用されている。基本情報はこれくらいだ。

「これを使ってお好み焼きを作り。食べさせた、と。そうではないですか? 二年五組の教室責任者さん」

「…………はい」

「え」

 あれ?

「僕が、やりました」

 ちょ、ちょっと待った。ここは「なんで僕がそんなこと」とか、「証拠はあるんですか?」とか、そういう事を言うところじゃないのか。

 オレの推理はどうなる? 華麗な解決編はどうなる? 折角反論とか質問のイメトレして備えていたってのに、披露することもなく、これで終わりになると?

 どうにか。なんとかしないと。

「待ってください、彼は、彼は悪くありません」

「! どういうことですか」

「なにを、」

 責任者が喰いしばっていた歯を離すより先に、家庭科部部員が、慌てて割って入ってくる。

 何か関係はしていると思っていたが。やはり共犯の線が濃そうだ。

 しかもこれは、教室責任者の方だけでなく、オレへの救いの手ともなりそうな予感がしてならない。というかそうであってくれ。

「私が、私が彼にそうさせるよう仕向けました。彼は悪くありません」

「何言ってるんだ、違う。僕が自発的にやったんだ。彼女は関係ない」

 そうきたか。先ほどの様子からして事前に打ち合わせているとは思えない、だとしたら大した信頼関係だ。カップルかな、知らなかったぞ。

 だけども悲しいかな、それは想定済みなんだ。

「まあまあ言い争いは止めてください。お二人のうちどちらが犯人なのか、はたまたどちらもなのか、は一先ず置いておきましょう。どうせわかることですし」

 泣きそうな表情で責任を奪い合う彼らを手で制し、ぴん、と人差し指を立てる。

 奇しくも、今のやりとりで推論がだいぶ補強された。彼らは共犯、だ。自白は要らない、全てオレが解き明かそう。

「まず前提条件の動機から。確か生活指導主任は文化部全般に、特に家庭科部などに当たりが厳しかったと聞いていますが」

「うん、それは事実だ。主にうちと科学部、吹奏楽部がよく聞く相手だね」

「あの人は運動部至上主義だからね……」

 問いかけに、部長と顧問が微妙な顔をしながら答えてくれる。噂は本当らしい。

「不当な扱いと妨害、それは一般生徒の間でもかなり有名になってきているほど。であれば今回の件はそれに対する報復、もしくはそれに準ずるものだと思われます」

 理不尽な圧力、攻撃によって押し込められてきた感情が負の方面へ爆発した、と。

 よくあるパターンではある。それを見咎めた親しい人物による代理犯行も、同様に。

「そうであれば、殺そうとまでするのはいくらなんでもやりすぎだ」

「……そうじゃない」

 推理の披露に入ろうとしたところで、か細く、震えた声で、責任者が否定する。

 それは決して、悲しみや怯えなどによるものではなくて。

 同時に、部員の身体がびくりと強張る。彼女の反応を認めた彼は、両の拳を握り締めた。

「それだけじゃ、ないんだ。あいつの差別は今に始まったことじゃない。でも……いい、よな?」

「っ、うん」

 二人は、何かの合意を交わす。なんだか、最初から最後まで想定通りにいかない気がするぞ。もうここまできたら拘らないけどさ。

 なんだろう、弱み握られて迫られたりでもされてんのかな。

「あいつは、家庭科部の不祥事を盾にして強請りを掛けてきやがったんだ。従わなければこの部を活動停止に追い込むと言って」

「不祥事?」

「それは、夏に行った合宿でのことだね。合宿中の食事、私たちで用意した物に中ったんだ」

「症状自体は軽く、診療の結果も大事ではないとのことだったのと、本人のたっての希望で、それはなかったことになった、というかぼくがした」

 部長と顧問が、代わりを受け継いで教えてくれる。まさかのどんぴしゃだった。

 なるほど、食品衛生の観点からして食中毒が発生した部活を続けさせる、文化祭で更に料理を振る舞わせることは咎められるだろう。表に出ては大変なことになる。

 その情報の公開停止と引き換え、というか公開するぞ、と脅してきた、ということか。

「失礼、事情があったことは理解しました。しかしそれでもやはり、殺しをしてもいい理由には成り得ないでしょう」

「そこまでする気はなかったさ。精々痛い目見ればいい、くらいのつもりで」

「下調べが不十分だったのでは。下剤等ならともかく青酸ですよ青酸。よっぽど致命的だ」

「それは会長の言う通りだ。昨日、偶然それを見かけたときに思い付いたから、詳しく調べている時間はなかったし、正直そんなに効くとは」

 思っていなかった。か。

 矛盾点は特になし、何かを隠そうとする様子も、繕う気もないように見える。動機と凶器と犯人が割れた以上、というか犯人が名乗り出た時点でこれは解決となった。不本意だが。

 順番を間違えたな。次からはまず反抗の手順とトリックを暴いてから犯人を指すようにするか。次があるかはわからないけども。

 いや待てよ。

「動機についてはこれで充分でしょう。では、服毒の方法について確認させて頂いても」

「本人に訊くだけで良いのでは?」

「甘いね書記ちゃん。こういうのは客観的な視点が必要なんだ。それに、彼らは共犯。万が一があっては困る」

「はあ……」

 半ば諦めたような目で書記ちゃんは引き下がる。意外にも潔い、いや、面倒だと思っただけだろうなあ。

 さて、準備は出来ている。

「まず、先程彼が述べたように、初手と考案は昨日。スーパーかどこかでキャッサバを見かけ、毒があることを思い出し使えると手に取った」

 場所は特に問題にはならないだろう。最近は珍しい食材が並ぶことも多いし。

 時間も同様。買い出しの時でも帰宅後のおつかい、散歩でもなんでも。気にするところではない。

 ここで注目すべきは、何故そう思ったか、だ。

「二年五組の出し物は食品。それも『サツマイモ』入りのお好み焼き。うん、甘みが強く出る組み合わせだ」

「あ、そうか」

「気付いたようだな。そう、『キャッサバはサツマイモに似ている』。故に代わりとして使えると判断出来た」

 見た目が似ていれば持ち込みは容易。都合がいいものもあったものだ。

 書記ちゃんと、話に付いて来られずきょとんとした顔で空気と化していた文化祭実行委員にキャッサバをよく見せ感想をくれとジェスチャーする。

「そう、ですね。こういう種類だ、と言われれば信じてしまうくらいには」

「ありがとうございます。つまり、持ち込みと使用の関門は最初からなかったんですよ。一応検査も入るだろうから他の団体はキャッサバを堂々と使えないでしょうし」

 これで『どうして』と『どうやって』に説明がつく。追及や否定が入らないということは今のところ大きく間違ってはいない。

 試食会には複数の教員が参加していただろうが、狙い撃ちは難しくないだろう。狙い通りにサーブするだけでことは済む。

「では、それがここに捨てられていたのはどうしてでしょう。普通は持ち帰って処分するはずでは」

「普通はな。でも、万全を期すとなるとそうなるんだ」

 より警戒したからこそ、新しいごみ袋の底で発見されたのである。

 しかし、これまでを打ち切り次に解くべき点を提示してくれるあたり、やっぱり書記ちゃんは助手に向いているかも知れない。

「場合に因ってはすぐに調査の手が伸びるし、そうなればまず疑われるのは試食会だ。そのままここや自分の教室のごみ箱に入れてはばれやすい、他の教室のごみ箱にこれを捨てるのは目立つ、かといってもう使うわけにもいかない」

 これに関しては想像の割合が大きいが、責任者と部員のやり取りからして、確証に近いものは得ている。

 単に元から適量だけ持ってきていれば何ら問題なかっただろう、証拠も残らない。けれど彼は実際に、およそ半分になったキャッサバの処理に困った。

 そこで家庭科部部員の登場だ。

「どうすべきか迷い、貴方は彼女に事の顛末を打ち明け相談した。ですよね?」

「……ああ」

「そこで採った案は至極簡単、十分に時間が経ってから。ごみ袋が交換されたタイミング、家庭科部がここを使い始めると同時にキャッサバを、代わりに捨てたんだ」

 家庭科部のみならず、部活は事前に試食会が開かれることになっている。よって疑われることはない。ごみ袋を検められることもない。

 故に共犯。全てを聴いた部員は、彼の犯行を共に隠蔽することに決めたのだ。

「なる、ほど」

「これで庇い合う構図の理由が成立する。ここまで合ってますか?」

「合って、います」

 震える声を、家庭科部部員は絞り出す。

 申し訳ないが、彼らがその手段を採ったからこそ、オレに発見され、こうして秘密は暴かれることになった。念を重ねたからこそ露見するとは皮肉もいいところだ。

 仮に彼がそのまま廃棄していれば、キャッサバは出てくることはなかっただろう。教師陣は原因を探そうともしていないし。

 ……探そうとも、していない。

 待て。

 ちょっと待て。

 そうだ、教師陣は、生活指導主任昏倒事件の犯人も、凶器も、原因も、何一つ探していない。その素振りすらみせていない。

 捜査する時間はそれはもう豊富にあったはずだ、オレたちが会議室に閉じ込められている間の一時間強。いやそれが本当に全て会議に充てられていたならば。

 書記ちゃんが調べてきてくれた教師陣のスケジュールに関しても、特に滞りなく、特異な時間も無く。

 それは何を示しているのか。

 つまりそれは、探す必要が無いということか?

 全てわかっているということか?

「よって貴方がたは共犯です。形はどうあれ、罪の割合はどうあれ、それは変わらない」

 おかしい。

 やはりおかしい。

 キャッサバの余りはごみ箱にあった。それを一番に見付けたのはオレのはず、オレだけのはずなのだ。そうでなければ残ってはいまい、捨てた本人だって警戒していたはずだ。

 ならば、知りようがない。キャッサバの存在を、家庭科部に募った悪意を、二年五組に潜んだ殺意を。

 わかっていない。そうとしか思えない、それしか有り得ない。

「君たちがそこまで思い詰めていたとは……」

「……すみません。家庭科部には迷惑を掛けないように終わらせるつもりだったんです、けど」

「気にするな。貴方がやっていなくても、いずれ誰かが同じようなことをしただろう。私とかがな」

「部長、それは」

「それくらい目に余っていたということだ。正直に言えば同情の情状酌量も得られよう」

「ぼくも、なんとか動いてみるから。安心してくれ」

「なにも、君たちがこうする必要はなかったのにな……」

 家庭科部の面々と責任者が涙ながらに慰め合う光景も。書記ちゃんと実行委員がなにやら話している様子も。

 全てが二の次に置き去られる。

 何かがおかしい。何かを見落としている。忘れている。逃している。これではない決定的な何かを。

 しかし、ならばこれは? これはどういうことなんだ?

 二年五組の教室責任者及び家庭科部部員による悪意ある服毒、隠蔽。しかも証拠、動機も自白によってすべて暴けている。彼らは確かに犯人だ。自他ともに、それは明らかになっている。

 彼らが嘘をついているとは思えない。だがこの違和感は。

「先輩」

「ん? どした書記ちゃん」

 素直に解決したと喜べず虚空を向いていたオレを、ふわりとした爽やかな香りと、困惑の色をした瞳が射抜く。

 それは二対。書記ちゃんのみならず、遠巻きにこちらを窺っている実行委員も同様だった。

「ちょっと、いいでしょうか。もしかしたら、あの人は失敗しているかもしれません」

「なんだって?」

「キャッサバについては、わたしも聞いたことがあります。うろ覚えですが、文化祭実行委員の方と示し合えました」

 振り返り目くばせをする彼女に対し、実行委員はこくりと頷く。二人はオレが持ち合わせていない情報を共にしていたらしい。

 校庭の方から大きな歓声が届く。それがやけに鮮明で、今更ながら、まだ文化祭の途中だということを思い出させる。

 不穏な空気の流れを肌で感じ取りでもしたのか、家庭科部の三人が話を止め、僅かにこちらに近づいてきた。

「あの、確認なのですが」

「は、はい」

 二年五組の教室責任者は、どういう態度で居れば良いか分からずに、書記ちゃん相手に畏まって返事を投げる。

 口内が乾いて喉が苦しい時の感覚に襲われる、大丈夫だ、オレの推理は、間違ってはいないはずだ。でも、どんでん返しや予想もつかない結末、隠された真実というのはミステリでは定石ですらある、現実でもそれが適用されることもあるのかも知れない。

「そのキャッサバですが、何処で買い求められました? スーパーですか?」

「僕の、家の近くのスーパー、です。普通に野菜売り場の一角にありました」

「ですよね。ならまずそれは当然ですが食用、甘味種であると思われます」

 なんだと。

 いや、そりゃそうだ。そこらのスーパーの野菜売り場に毒物がぽんと置かれているわけもない。危険すぎるだろう。

「苦味種に比べれば甘味種の毒、シアン化合物の含有量は少ないはずです。まあそれでも食中毒事件は起こるらしいですけど」

「だから今回は不発に終わったのかも、ってことか?」

「単にそれだけという可能性もなくはないですが、今回はまた別の要素が関わっていると思われます」

 それだけではないと。まだ、こいつには何かあるのか。

 こつ、こつ。書記ちゃんは大きい歩幅で、ゆっくり、オレたち六人から離れて。全員を同時に視界に捉える位置で止まる。

 ゆらりと彼女の腕が上がり、オレの手のキャッサバを指差した。

「そこで質問です。それ、料理する時に。皮、剥きました?」

「剥い……た、けど」

「なら尚更ですね」

 色合い的にも、甘さ的にも。さつまいもの皮は剥いているとされていた。

 今回は、キャッサバをさつまいもと混同させるため、その作業工程は、ほぼ必須であったといえる。

「キャッサバに含まれる毒ですが。その大半が、外皮に分布しているとされています。そのため、皮を剥いた時点で危険性は大幅に低下しています」

「な」

 彼らがその処置をしたということは、キャッサバから毒成分を取り除いていたということ。自ら凶器の刃を削ぎ落としていたということ。

 何ともいえない驚愕の表情の責任者からして、知らなかったとみていい。

「それに。毒は水に晒したり、加熱することでほぼ完全に抜くことが出来ます。対して二年五組の出し物はお好み焼き。しっかり熱は通っているはずです」

「じゃ、じゃあつまり、毒は」

「その殆どが抜けていたでしょうね。まず効くことはないかと」

 と、いうことは。

 散々引っ張って。ちゃんと推理して。自白も引き出して。ここまで漕ぎつけたけど。

 全部。

「よって。二年五組の教室責任者さんは犯人ではありません。もちろんやったことに変わりはないですが、何も成していないのです」

 無駄だった、ということか。

 

 

 

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殺人なんて、あるわけないじゃないですか。前編

10,155字

 

 

「殺人、か……」

 静まり返った会議室で、ぽつりと。しかし重々しく、至って真剣な表情で、先輩はそう呟いた。

 そう、年に一度のビッグイベントである文化祭。その一日目の朝を迎えたこの高校では、想像される晴れやかで爽やかな空気とは正反対の、身の毛がよだつような恐ろしい殺人事件、が。

「ちょっと先輩、死人出てませんし、そういうこと平気で言うのやめてください」

 起こっていなかった。

 正確には、殺人事件は、だけれども。

「いや、悪い悪い。癖でつい雰囲気を出そうと、な。あとオレのことは会長と」

「何の雰囲気を出そうっていうんですか。とりあえず静かに座っていてください本当に」

「はいはい。でも、いつまで待ち惚けなんだろうなオレら。始まっちまうぞ」

 クーラーを全開に効かせた会議室Cに放置されて早一時間。わたしたちは、他四人の教師とずっと沈黙を保っていた。ついさっき先輩が破ったけれど……。

 確かに校内開催時刻が迫ってきている、このままではこの室内で開始を迎えてしまいそうだ。

 窓は閉め切られ、カーテンもしっかりひかれているため外の様子を伺うことはできないものの、ざわざわとした喧騒は耳に飛び込んでくるし、その熱気も肌で感じられる。表には出さずとも、焦燥感は着実に募ってゆく。

 準備が終わり次第身に付けることになっていたトランシーバーもまだないため、他の生徒会メンバーと連絡が取れない。彼らはわたしたちがいないことに気が付いているだろうか。仕事は滞りなく進められているだろうか。何もできずにいる、というのは相当に歯がゆい。

 いけないいけない、考えれば考えるほど焦ってしまう。こういう時は別の事を思い出そう。

 昨日の夜に見たテレビ番組を反芻してみる。ニュース、バラエティ、健康番組。最近は夏風邪が流行っているらしいこと、アウトドアでBBQを行うことが人気になってきていること、アルコールは薬効を強めてしまうから処方箋を出されている人は控えなければならないということ。他にも、色々あったはずだ。

「つか、なんでオレたち閉じ込められてるんすかね。なんか事情知ってます?」

 一度言葉を発することで緊張の糸が緩んだのか元々なのか、しばらくこそこそと教師陣から見えないようにスマートフォンを弄っていた先輩が、近くに座っていた教師に声を掛ける。怖いものなしかこの人は。

「いや、俺も詳しいことは知らないなあ」

「そっすかぁ。やっぱ箝口令的なアレなんすかね。直接的すぎっすけど」

「そこまで大層なものじゃないとは思うけどねえ。どこまで知らせるか、とか、代役の配置どうするか、とか話し合ってるんじゃないかな」

 不安そうな顔をしてしきりに窓の外をちらちら確認していた若手の物理教師は、困ったように返してくれた。やはり自分のクラスが気になるのだろう。

 十時開場に対し、現在時刻は九時四十五分。今から解放されたとしても、もう時間はほとんどない。

「大丈夫っすか、だいぶ眠そうに見えますけど」

「昨日の会議がかなり長引いてね……動いてればまだましなんだけどこうしてじっとしてると、どうもね」

「そっすよねぇ、何も無いと暇で暇でしゃあねえっすわ」

 先輩と先生は、そろって欠伸をかみ殺す。仲良しですか。

 生徒会ですら帰宅は午後八時前後だったのだ、教員はきっともっと遅くまで色々話し合っていたのだろう。眠くなるのも無理はない。

 何故、こんなぎりぎりになるまで軟禁まがいのことをされているのか。

 それには、不透明な事情があった。

「大体は救急車が来たことも知ってるし、事情説明は早めにしといた方がいいとは思うんすけどね」

「まあ、それはそうだろうけど、色々あるんだよ、多分」

 一時間と少し前。運営本部が設置されている会議室Aにて。突如、入室してきた一人の教師が昏倒した。目撃者はここにいる六人と、今現在会議をしているであろううちの二人、計八人。

 意識がないことが確認されたため、後に病院へと搬送されていったその教師はしかし、先ほど先輩が言った通り、生活指導主任としてよく知られていたので、既に事の顛末は広く知られていると思う。

 でも文化祭自体は開催されるわけだし、正直なところ、ここで留められる理由が見当たらない。

「ん、やっとか」

 先輩がふと顔を上げると、会議室Cの扉が開いた。

 

 

「……なあ、なんであそこまで時間がかかったと思う?」

 心躍るいたずらを思いついた子供のような明るい表情の先輩は、生徒会室に戻る道すがら、そう問うてきた。

 この人は、今さら何を言い出すのだろう。まあ、少し長すぎでは、とは思ったけれど、それだけ。解散を指示した教頭先生も、詳しいことは何も教えてくれなかった。

「単純に議論が長引いたからだと思いますけど」

「何の?」

「え?」

 先輩が不意に立ち止まり、つられてわたしも思わず足を止めた。職員棟から教室棟につながる渡り廊下は私たち二人しかおらず、静まり返っている。

 時間もないので早く行かなければならない、でもこの好奇心に心を奪われてしまった先輩は、多分梃子でも動かない。

「一体、何についての議論をしてたんだろうな?」

「それは、知らせるかどうかとか、代役をどうするかとかいったことじゃ、ないんですか」

「残念ながらそれはない」

 先輩の声が反響する。喧噪は遥か遠く、他の音は削れて落ちてゆく。

「まず知らせるかどうかだが、目撃されている以上、さっき言ったように拡散はもう抑えられねえし、それは問題にならない」

 むしろ必要なのは出回っている情報の修正であり、かつその真偽などどうでもいい。大半の人間にとって、生活指導主任の体調の良し悪しなどは、興味の対象にならないからだ。

 それこそ、それが「殺人事件」でもない限り。文化祭に影響がないのは明らか。

「次に代役。そんなもんは決まってる、ってか、あいつの仕事は既にほぼ終わってた。代役なんていらねえんだ」

「そう、なんですか?」

「そそ。部活の事前指導と各食品出店クラスの安全確認。どっちも終わって後は受付かなんかに詰めるだけだったはず。それも若手に大体やらせるつもりだったろうからな」

 文化祭中の業務内容にあんまり重要なものはないとすると、その議論も不必要。

 あと他に、何か話し合っておかなければならないことがあるだろうか。

 一時間余りもの長時間にわたって、考えなければならないような、そんなことは。

 いや。

「仮にそうだったとしてもしなくても、それは先輩の妄想の域を出ないでしょう。ほらもう行きましょうよ」

 論点はそこではないし、詳しい事情を知らないわたしたちが想像できることにも限界がある。どんな話をしていたかどうかなんて、わかるわけがないのだ。

 控えめな手振りで語る先輩に帰路を促し、自ら歩き出す。これ以上遅延行為をされてはたまらない。他の役員たちも、生徒会室で待っている。

「ま、そらそうなんだが。でもさ、あんなに長くて中身が不明な会議、不自然だとは思わないか? あとオレのことは会長と呼べ」

「誰だって多少はそう思うでしょうが、そこまでは」

「どうしても引っかかるんだよ。そこにも、あいつがぶっ倒れたところにしても」

 目的地に近付くにつれ、先輩の興奮は収まっていくように感じる。でも、声の熱は高まっていく。

 なんだろう、そこはかとなく、面倒くさいことになりそうな気が、する。

「何が先輩をそうまでさせるんです?」

 生徒会室の間近。先輩は一瞬だけきょとんとしたかと思うと、急に真面目な顔を見せる。

「そりゃ勘だよ勘。ただの勘だ。あとオレのことは会長とだな」

「勘、ですか……」

「オレの勘が、これは殺人事件だって言ってんだ」

 

 

 高校生たちの青春の祭典が、始まった。

 学校全体が、さっきまでとは打って変わってとても賑やかである。

 来場者第一号が入場してきた途端に、勧誘合戦の幕が切って落とされる。物理的に客を引くのは禁止だが、どれだけ近くでアピールしても良いことにはなっている。無論度が過ぎていれば駄目だけれど。

 右を向けばメイド服に身を包んだ男子、左を向けば巫女服を着た男子、振り向けばバニーコスの男子。

「……なんでコスプレしているのがみんな男子なんですか……?」

「そっちの方が笑えるだろ」

 先輩は苦笑しつつそう返す。

 まあ、そうかもしれない。実際ちょっと着てみたくはあるけど、それで不特定多数の前に出るのは勘弁だし、笑いをとるならそっちの方が適任かも。

 出入り口付近は、会場直後は混みに込み合っていたものの、三十分もすれば人の流れもスムーズになり、警備の増員もお役御免となる。

 自前のスマートフォンに目を落としていた先輩は、僅かに口角を釣り上げた。

「んじゃ、行こうぜ」

「はい」

 他の生徒会メンバーと別れ、二人組で各組仕事に赴く。

 この高校の生徒会執行部は計八人四組。仕事は午前午後で交換制で、委員会の活動チェック、校内見回り、受付手伝い、体育館警備、の四つで、わたしたちは午前に見回り、午後に委員会。

 見回りといってもやることは少ない。あってせいぜいが落し物預かりとか道案内くらいだ。

 なので多少とはいえ、暇にはなる、のだけれど。

「よーし、犯人探しだ。行くぞ書記ちゃん」

 この人は呑気にも、今朝の事件――と言い張っていること――の調査をしようと言って聞かない。

 どこぞへ駆けていこうとする先輩を、役員Tシャツの裾を掴んで止める。

「なに言ってるんですか、仕事があるんですよ、行くわけないでしょう」

「書記ちゃんこそなに言ってんだ、これは見回りの立派な仕事だぞ。オレたちに可能な範囲での治安維持に問題の解決。生徒会の、ひいては学校自体の仕事とも言える」

「詭弁です。わたしからすれば、それは『起こっていない事件』です」

「オレからしてみればこれは確かに『起こっている事件』だ。その主張を繰り返すなら進展はないぞ」

 階段の途中で立ち止まり、正面から対峙する。先輩は引く気を微塵も見せない。なんなんだもう。

 焼きそばやホットケーキが焼ける音、甘いものやカレーの臭いが、そこらを満たしてゆく。楽しげな声が溢れる。文化祭はもう、始まっているのだ。

 始まっている、のに。

「別に見回りはちゃんとするさ。その道中でオレが自発的に聞き込みやらをやるだけだって」

「そんなこと、わたしたちがしなくても」

「いいと思ったか? でも残念ながら、オレたちがやらなきゃ犯人は出て来ないぞ」

「見つからない、ではなく?」

 ここでは目立つ、とでも言うように、先輩は特別棟の方へ、わたしを引いたまま歩いていく。周囲の目もあるし、仕方ないから手は放した。

 図書室や音楽室、文化部の部室などがある特別棟は、教室棟よりは閑静で、まだ人通りは少ない。

「そもそも、あんなに長引くのは犯人がわかってないか、わかっていて責任問題がどうとかでごたごたやってるか、そのどちらかだとオレは推察する」

「前者はともかく、後者の場合はわたしたちが動く必要がないのでは」

「ところがそうもいかない。もしこれが事故ではなく事件で、かつ職員の犯行だとすれば。それはしっかり学校の不祥事だ。そうなりゃ当然」

「揉み消したくなる……?」

「そう」

 随分と論理というものをかっ飛ばした豪快な推理だ。しかも先輩はそれを自信満々に披露するので手に負えない。

 普通に事故だったら。もし事件だとしても、生徒の犯行だったら。それらの可能性を潰すための情報が何もない以上、先輩のそれは机上の空論にしかならない。まるで穴だらけだ。

「ここで無かったことにされちゃあ困るだろ。そのうち第二、第三の被害者が出る確率はゼロじゃない。そんでそれを止められるのはオレたちだけってわけ」

 例え、ここでわたしたちが全て忘れ、無かったことになったとしても。犯人がいなくなるわけではない、と言いたいのだろう。

 けれど。

 それもこれも、総じて想像上の話でしかない。そう切り捨てたかった、のに。

「……余計なことを、しないので、あれば」

「よし! じゃあ行こうか!」

 故に。この人を止められる理由がない。

 先輩がやろうとしているのは飽くまで最悪の場合を想定した対処であって。それが決して、してはいけない、という類のことではなく、かつ仕事は普通にこなすとなると。それ以上追及の言葉が出てこなくなってしまう。

 わたしは、甘い、のだろうか。軽快な足取りで階段を上ってゆく背を追いながら、ぼんやりと立ち上る後悔の念に苛まれる。

 

 

 

 ミステリ小説等の事件解決の流れは、大きく分けて二つほどあると思う。

 一つは、進行形で起こっている事件に関わっていくもの。巻き込まれる場合もこれに属する。

 もう一つは、既に起こった事件に、後から関わっていくもの。極端な例だと安楽椅子探偵が挙げられるだろう。

 今回は後者。危険な目に遭ったりすることは十中八九ないものの、まず手がかりを得る能力が必要になってくるため、創作世界の中の生徒会ではありがちな、特に強い権力、を持っているわけでもないわたしたちには少々難易度が高い。

「それで先輩、何かアテはあるんですか?」

 特別棟三階の廊下を意気揚々と歩く先輩に、如何にも探偵か刑事の助手っぽく訊いてみる。

 犯人を捜すなんて簡単に言うけれど、動機や凶器に犯行時刻、犯行方法に果ては犯行現場に至るまでほぼ全ての情報がない現状からでは、そもそも犯人に辿り着けるかどうかといったら……どうだろうか。

 余程のモノがなければ、非常に難しい、以外の評価は見当たらないのでは。

「いや、特にないけど……まあ、手当たり次第だな! あとオレのことは名探偵と呼べ!」

「迷える探偵様、不安になってきたんですが」

 壮大な時間の無駄遣いの予感。

 そも、わたし自信その生活指導主任については詳しく知らない。基本的なところ以外は精々が噂や印象、評判レベルのものばかりだ。

 曰く、生徒に、特に文化部全般界隈からとても嫌われているとか。

 曰く、それはその先生が独自の信条として、運動部至上主義を掲げているからだとか。

 曰く、その所為で一部の教師陣と著しく仲が悪いとか。これは動機に繋がりそうではありそうだ。

 曰く、大の酒好きだとか。流布させた本人が早く痛風になればいいのにと言っていたあたり嫌われようがよくわかってしまう。

 担当教科は世界史。三年生を中心に授業をしているはずなので、一年生のわたしが目撃する場としては朝会くらいしかない。

 今日の担当業務は、各部活動の事前指導と各食品出店クラスの安全確認。あとは受付、らしい。受け持ちのクラスが無い教師ではかなり軽い方だ、それも同じ生活指導に属する他の人たちに大半を押し付けている、とも。先輩の情報なのでいまいち信憑性に欠けるけれど。

 彼と共に業務に当たっていた教師は主に、先程会議室で一緒だった物理教師と、家庭科部顧問の生物教師、だったか。

 つらつらと色々思い出しながら、特別棟を歩いていく。

 聞き込みといっても、ただ無秩序に、手当たり次第にするわけではない。生活指導主任のスケジュールから考えて、まずは事前指導を受けたであろう部活動へ話を伺いに赴くつもりだ。

 音楽室の近くまで来ると、吹奏楽部の演奏が耳に届いてくる。午後からの公演の練習をしているのだろう。

 うちの吹奏楽部はそこそこの規模で、顧問の音楽の教師がこれまた熱心な人で、なかなかの成績を残してもいる。熱血の男性教師で、かなり真面目な事でも有名だ。居れば捜査には協力はしてくれそうではある、けれど。

 まだ音が響いている音楽室の扉を、先輩は何の躊躇いも無く、一気に開け放した。

「失礼しまーす」

 闖入者に、室内の皆の動きが止まる。わたしも凍りつく。

 数十対の瞳が一斉にこちらに向き、視線が本当に突き刺さっているような錯覚に陥る。

「何の用ですか?」

 縁なし眼鏡を掛けている、理知的で鋭そうな人が進み出てくる。恐らく、部長さん。顧問は見当たらない。

 明らかに苛立っている様子の彼女に対し、先輩は態度も表情も、一切を変えない。やられた側からすれば相当に迷惑なうえに神経を逆なですること間違いなしだ。

「見回りです。あと、ちょっと訊きたいことがことがありまして。お時間よろしいですか?」

「……みんな、少し休憩。さっき言われたところよく確認しておいて!」

 とても嫌な顔を隠さない部長さんは部員にそう告げると、ため息をつきつつ、先輩を押し戻すように廊下に出てくる。

「見ての通り、あまりよろしくありませんので、手短にお願いします」

「もちろんですとも。尋ねたいことは三つほどあります」

「どうぞ」

「まず一つ目、生活指導主任の所在が不明なんですけど、なにか知ってますか?」

 既に不機嫌な表情をしていた部長さんは、さらにほんの少し、不快そうに顔を歪めた。

 生活指導主任さんは、その役職の性か本人の性格か、生徒からの評判が良くない。十分にオブラートに包んだうえでその評価なので、直接の意見が罵詈雑言に塗れることは想像に難くない。

 各部活の活動に対してもなかなか厳しいという話をよく聞くので、この吹奏楽部も多少なりとも思うところがあるのだろう。

「いえ、知りません」

「では二つ目、その生活指導主任さんが事前検査かなにかでここに来たと思うんですが、それは何時ごろでしたか?」

「七時半を回らないくらいだったと思います」

「最後、三つ目。その時の生活指導主任の様子はどんな感じでした?」

「それは、どういう?」

 淡々と答える部長さんと、これまた淡泊に質問していく先輩。普段もこんな感じでいてくれればいいのに。

「具合が悪そうだったり、機嫌が悪そうだったり……はいつもか。とにかくそういうのです」

「そうですね、少し咳き込んでいました。風邪にでも罹っていたように思えます。薬も飲んでいましたので」

「飲むところを目撃したんですか?」

「ええ、まあ。チェックの後にそこの水道で」

 廊下の端の手洗い場を指差した部長さんは、これで話は終わりだとばかりに扉に手を掛ける。

 特に見回りとして口を出すところなんてないし、先輩も自ら宣言した三つの質問をし尽くした。もう用はないはずだ、というかこれ以上迷惑をかけるのは申し訳ない。

「そういえば、顧問の先生が見当たりませんが。どうかされたんでしょうかね」

「知りませんよ。もういいですか」

「はい。ありがとうございました」

 すっと頭を下げる先輩に慌てて倣う。相手から見れば、わたしも同罪のようなものだ。納得はいかないが。

 眼鏡を指で押し上げ、小さく頭を下げ返してくれた部長さんが扉の向こうに消えると、先輩はすぐに踵を返し、歩き出す。

「特に目ぼしい情報はなかったな。次行くか」

 せっかく協力してくれた部長さんには悪い気がしたけれど、聞き込みなんて総じてそういうものだ。推理小説なんかとはわけが違う、一発で有力な情報など得られないのが普通。

 数をこなし、幾つもの証言を精査し、仮説を立てて、やっと推理を構築できる。そういうものだと思う。でもそれは非常に面倒くさくて地味でつまらないのが通例。刑事モノでもそこら辺はよくすっとばされていることからも、なんとなく察せる。

「次はどこへ?」

「そうだな。次はチア部にでも行くか」

 しかし。わたしたちにはあんまり時間はない。

 二日経てば文化祭は終わってしまうし、被害者への関心も、関係者の記憶も薄れて消えていく。犯人を見つけ辛くなるうえに、特定したとしても問題視されなくなる危険すらあった。

 不服だけれどもやる以上は、なるべく早い解決が望まれる。

 さっきまでは特別棟も閑散としていたのだが、もうちらほらと一般客の足音や話し声が長い廊下に響いている。この様子だともう教室棟は人でいっぱいだろう。

 今度は階段を下りて、もうすぐ出番のはずのチアリーディング部の臨時控室となっている被服室へ向かう。吹奏楽部と人数を競い合う大所帯なので、体育館下の通常の更衣室には入りきらないために、毎年そういう措置が取られている。

「どもっす」

「ああ、駄目だよ今入っちゃ。着替え中だからね。社会的に死んじゃうよ」

 被服室の前には、家庭科部顧問の生物の教師が立っていて、躊躇なく扉に近付いていく先輩に警告してくれる。

 けれど。

「大丈夫っすよ、オレもそこまで馬鹿じゃないっす」

「えぇ……捕まるようなことはやめてね……」

 そう言って先輩は平然と歩いていってしまう。もし何かあった場合、共犯にはなりたくないのでわたしは家庭科部顧問の横で立ち止まった。

 流石にこのタイミングでは中に男性の顧問がいることはないだろう、また生徒と一体一だ。ここの顧問は熱血の化学教師で、かなり真面目な事、と、何故かはあまり知られていないものの、吹奏楽部の顧問と仲が悪いことで有名。できればそちらと対話してほしかったけれど。

「なんでここで番をしてるんですか?」

「家庭科の先生が風邪で休みでね。文化祭中は家庭科系の部屋の鍵の管理がぼくに一任されちゃったんだ」

 少し離れたところで家庭科部顧問と傍観していると、なにやら話し声が漏れてくる被服室の前に立った先輩は。

 しかし普通にノックした。

『はーい』

「あ、いまお時間大丈夫ですか?」

『えーっと、ちょーっと待っててくださーい』

 吹奏楽部とは違ってチア部は、気軽に開けてもし着替え中、とかだった場合に社会的な死もあり得る。などと考えたのかもしれない。

 でも常識的に考えて着替え中なら鍵を掛けるはずだし、出番が近いのでもう済んでいるだろうし無駄なリスクマネージメントですね。あとその判断が出来るならさっきも今と同じことをしてもらいたかった。

「はいはーいお待たせしました! 私が部長ですが要件はなんでございましょう!」

「突然すみませんね。三つほど訊きたいことがありまして」

「もうすぐ演技なんで巻きでお願いしますねー」

 にこやかなチア部部長さんの頬が引きつる。やはりタイミングの悪い来客は誰でも嫌だろう。当然だけど。

 それでも明らかに敵意を剥き出しにしていた吹奏楽部部長よりは友好的、と考えるべきなのだろうか。どちらにせよ先輩が悪いのだが。

「今朝、生活指導主任が検査とかで来たと思うんですが、大体何時くらいだったか覚えてます?」

 その役職名を出すと、先ほどではないものの部長さんの眉が寄る。

「そうですねー、今日は早かったので、七時の十、から十五分、くらいだったと思いますよー」

「その時、機嫌とか体調悪そうにしてたとかありませんでしたか?」

「機嫌はー、いつもよりは控えめだった気がしますねー。風邪ひいてたっぽかったからだと思いますけど。風邪薬あげたら喜んでたしー」

「貴方の風邪薬を?」

「いえ、今朝友達に貰ったやつですー。市販品だし、より困ってる人に渡した方が良いかなーって」

 また風邪の話が出る。ひとまず複数の証言が得られたので、生活指導主任が風邪か何かを患っていたことの信憑性は高くなった。

 でも、ただの風邪では先輩のいう「殺人事件」には成り得ない。本当はもっと重い疾患だった、とかでない限りは。

「それはまた、いろいろ突っ込みたいですが。とりあえず、今生活指導主任がどこにいるか知ってます?」

「知らないですねー。あと、調子が悪いのは今日からとか言ってましたー」

「なるほど、助かります。ご協力感謝します」

「はーい」

 張り付いたような笑顔で段々早口になっていく部長さんに頭を下げ、その場を後にする。

 聴いている分には穏やかな口調かと思われるが、無言の威圧が結構なものだったためなかなか怖かった。それを一身に浴びて意に介さない先輩は凄いのか凄くないのか。

 人気のない方の廊下の端まで颯爽と進んだ先輩は、どっかりと階段に腰を下ろし、大きなため息をつく。

 わたしもそうしたい気分だったけれど、真似したみたいで負けた気がしそうなのでやめた。

「うーん、どう思う書記ちゃん」

「いまのところは、まだなんとも言えない、ってところでしょう」

「そっか……そうだよなあ。なんか聞き込みめんどくさくなってきた」

 自分で言い出しておいてこのザマである。

 序盤も序盤、たった二か所しか回っていないというのに。意欲が削がれるのが早すぎやしませんか。

「そんなものだと思いますけどね」

「えー、次行く? もうよくねー?」

「先輩が言い出したんですから、ほら立って。頑張ってください」

 やる気を失った先輩を無理矢理動かす。自分でも何やってるかわからなくなってきた。

「じゃあ合唱にでも行くか……」

 行先は音楽準備室で控えているだろう合唱部に決まる。音楽室の隣だし吹奏楽部の次でよかったのでは。やはり独断と偏見と勢いがなんたら。

 独自の調査は始まったばかりなので当たり前といえば当たり前だけれど、ほとんど進展はない。

 しかし、二人の部長さん方の反応を思い出すと、動機からは犯人の特定が困難だと感じられる。

 わたしは関わりがほぼないのでわからないが、それだけ嫌悪されていれば、何がトリガーになるかわかったものではない。

 嫌いだから暴力を振るう、腹が立つから危害を加える、不快だから邪魔をする。

 目には見えない悪意が、今も、すぐそこに蠢いているかもしれない。

 

 

 

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