善かれと想って
4,517字
人が死にゆくとき、最後まで残るのは、聴覚、らしい。
だから私は、いつも遺族に同じ言葉をかけることにしている。
「感謝を、伝えてあげてください」
息を引き取っても、直後であればまだ意識はそこにある。
ベッドから離れ、遺族達へ場所を譲る。
「お、お父ざん……」
泣き崩れながら。死者の手を握りしめながら。遺された人々はそれぞれの別れの詩を紡ぐ。拙く、辿々しく。
後のことは私の仕事ではない。踵を返し、
死に直面するとき、人は少なからず素直になれる、と私は思う。
失って初めてその大切さに気付く、
馬鹿馬鹿しい。
とても馬鹿馬鹿しい。
そんな最期の最後まで正気になれないのは明らかにおかしい。
意思の伝達がそんなに難しいことなのか。
私達の手助けがなければ出てこない感謝など、
だが、それで遺族が満足すればそれでいい。
回診の時間だ。カルテを片手に携え、
「ほら泣き止みなさい。他の患者を不安にさせるでしょう」
「ゔぅ……っ、」
叱られた子供みたいにぼろぼろ号泣する新人看護師にも、
毎年毎年、優に百万人は死んでいるのだ。
そりゃあ、惜しまれないよりも惜しまれる死の方が良いとは思う。
私が死ぬ時は、どうか安らかに、楽に逝きたいものだ。
「家族の方が来るまでなんとか保たせてください、とのことです」
若い看護師は、病室に駆け込むなり私達にそう告げた。
「何分だ」
「早くて二時間だそうです」
ふざけるな。
暴言が口から出かかって、なんとか留める。いや、
無茶な注文だろうが、これも仕事だ。訴えられては困る、
「手が空いてる医師を呼んでおいてくれ。蘇生処置に入る」
「はい」
電気ショックの準備を指示し、
既に心停止、
それでも、今回のような、どうにか生かしておいてほしい、
マウスピース越しの人口呼吸、胸骨圧迫を始める。
「……っ」
体重をかけて何回か押すと、
老齢の患者に対して心臓マッサージを施すと、いとも簡単に、
折れた骨は肺やそこらに容赦なく突き刺さり、苦痛を与え、
もし意識があったならば、それは凄まじい痛み、
「離れてください、電気ショック、流します」
除細動器に依り人体が大きく跳ね、一時的に心臓が停止する。
また、続けて心臓マッサージと人口呼吸を繰り返しているうちに、
「代わるよ」
「お願いします」
まだまだ若手のつもりだったが、
先輩が蘇生を試みている姿を見ていると、
誰が望んだのかというと、それは遺族たちだ。
気持ちはわかる、彼らだって、この患者を直に看取りたいだけ、
だけど。
ならば死期が近いこの人の側に、
自分たちは何もしないのに、
自分たちの勝手な都合で、尊厳ある死を冒涜していると、
俺ならば。俺なら、絶対にそんなことはしないし、
今度、妻と娘と話し合っておかなければ。
どこからどこまでが「生きている」ことになるのだろう。
息をしていなければ死んでいるのか。
死を定義するには、
止めよう。最近は、歳をとったのか、
扉を開け、物音のしない病室に足を踏み入れる。
「先生……こんにちは。今日はいい天気ですねえ」
ベッドの脇のスツールから立ち上がり、綺麗なお辞儀をする女性、
見飽きた配置、見慣れた角度。ここ数ヶ月、変わらない光景だ。
「……どうも。良い秋晴れ、ですね」
男性は、ここに来てから、一度たりとも目を開けたことはない。
自発呼吸は可能、血液循環も正常。覚醒の機能は保持されている、
俗に言う、植物状態。大脳が死んでいる状態、
回復する可能性はあるが、
「…………」
容体にも、沈黙に包まれるこの病室も、ずいぶん前からずっと、
女性は、面会時間のほとんどをここに座って過ごしている。
彼は、医学的には、生きている。
しかし、彼は本当に、生きていると、言えるのだろうか。
意思のままに身体を動かすことも、
俺は、いや、私には、わからない。
いくら生命を永らえさせたとしても、本人にはその自覚も、
そしてそれを望んだのはこの女性だ。
彼女は毎日ここに通い詰め、段々と、
では一体、彼女は、誰を想ってその選択をしたのだろう。
私とてそれなりに歳を重ねてきた、こんな場合も、
決して、わからないわけでは、ない、はずだ。
やはり、私には、わからない。
とても長い、しかしとても短い、夢を見ていた気がする。
目が覚めた感覚はする。思考は出来る。だが視界は開けない。
ゆっくりと、夢を見る前の記憶が、掘り起こされていく。
どうやら、私は寿命を迎えるところだった、と、思う。
だとすると先程の夢は走馬灯か。そして、
色々なことを思い出していくに連れ、頭部に、胸部に、腹部に、
多少痛みには強い方だと思っていたものの、次第に大きくなる疼痛は今までに体験したことがないほどに激烈で、とてもではないが耐えられる代物ではない。無意識に、勝手に身体は捻れ、口は呻き声を発しようとする、いや、した。
しかし、声は上げられず、指の末端に至るまで何一つ随意に動かせない。刺激に対して、
これは。
「父は、父は助かるんですか⁉︎」
突然聴覚が回復し、娘らしき人物の、
次いで機器が稼働する音、二、三の人が駆け回る足音。誰か、
「……取り敢えず生きてはいる、というところです。
何を、言っているんだ。
遷延性意識障害とは違う、私は自分自身や周囲を認識出来ている。
これは閉じ込め症候群、違う、眼球ですら随意に動かせない。
どうすればいい。どうすれば、
いや、生き延びることを考えなくても良い。
「良いんですか? 自力で生きられなくなったら殺してくれと伝えてあると聞いてます
そう、そのはずだ。
「……はい」
まさか。
話し合っただろう。止めて欲しいと言っておいただろう。
この苦しみから解き放ってくれ。
これ以上は。
頼むから、止めてくれ――
「父を、生かしてください」